2007年6月29日 (金)

帰国「船でみつけた宝物はなんですか?」

10月26日:下船説明会
 出発のときは、宅急便が各自の船室まで荷物を運んでくれるので、手ぶらでチェックインできた。帰りは税関検査があるので、自分の荷物は自分で運ばなければならない。
従って、例えば、ハワイで下船してゆっくり過ごそうと思ったら、スーツケース一つで乗らないと、いくつものダンボールと一緒に船から降ろされることになる。
Nちゃんというお孫さんと一緒だったMさんは、ハワイで大きめのスーツケース一つを引張りながら下船していた。最初から計画していたのだろう。それにしても、よく長旅をスーツケース一つで生活したものだ。

10月27日:船長によるさよならパーティ
オフィサーだけでなく、厨房スタッフ、ハウスキーパーなど全員を紹介した。みんなで拍手して、長旅を支えてくれた裏方さんへの感謝の気持ちを表わした。毎日のようにご飯だけを炊いている20代の若者は、日本人だった。
食材購入担当者も大事な仕事だ。寄港地ごとに地元の業者に食材を発注している。例えば、卵は約1万個、キャベツなどの野菜は100キロから1トン。インターネットで常に卸し業者を探しているという。
インドネシア人のウェイターに、教えてもらったタカログ語で「ありがとうとう」(「マラミサラミ」)というと、笑い顔がもどってきた。どうやら通じたらしい。

あと数日で元気に旅を終えられそうだ。みんなの顔に安堵感がただよう。乾杯でお互いの健闘をたたえあい、再会を約束する。100日前に期待していたことが達成されたかどうか、などはこの際関係ない。ただ元気なのが、なによりのみやげだと思う。

10月29日:帰国「船でみつけた宝物はなんですか?」
 100人アンケートの結果は、43人が「仲間:一生付き合いたい仲間ができた」7人が「貴重な体験:寄港地で偶然友達になった人が家に招いてくれた」5人が「新しい自分:自分のことをオープンに話すようになった」だった。
私の場合は、「新しい自分」だと思う。「敬子(ゆきこ)と愛のチェロ」を企画したKさんの話が、私に対する「生きている間に奥さんを大事にしなさい」というメッセージだったのかも知れない、と考えるようになった。

印象に残った寄港地は?というアンケートにクロオチアがトップだった。私もクロオチアなので、みんな似たような印象をもったのだと思う。ただ、その理由の中には「山からの夕日」の他に「生きているって思った」というおもしろい感想があった。

10月29日7:30横浜に入港。横浜で下船する500人近い人の荷物の搬出も大仕事。午後2時ごろやっと帰宅。出発前から約束していたので、早速床屋に3ヶ月のばした髪の毛を見せに行く。デジカメで髪ののびた様子を撮ってもらう。
 よる8時すぎにはウォークマンをつけて散歩。妻いわく「3ヶ月で少しは変わると思ったけど、出かける前と少しも変わっていないじゃない」

このシリーズは、今回で終わりですが、「団塊世代100日間世界一周の船旅-定年後のリフレッシュ」(多田 稔著)として文芸社から出版されます。書店でご覧いただければ幸いです。7月初めより店頭に並びます。お読みいただき誠にありがとうございます。
多田 稔

2007年6月16日 (土)

団塊の世代に贈る・・・これからどうする?

団塊の世代に贈る・・・これからどうする?

(現役か、ボランティ活動か?)
現役を卒業したら、ボランティ活動をすすんでする。ボランティア活動を通じて「自分も社会に貢献できる」、「自分の技術・能力の市場価値がある」と考える。
いろいろなボランティ活動があるが、「技術の伝承」にこだわらない。どこかの記事で、日野原重明さんが、ボランティ活動の例として「子供に昔話をしてあげる」ことをあげておられた。こうした活動も、広い意味で「技術の伝承」と理解すればよい。

定年後の再雇用制度で、現在の仕事を続けるのが「現役を続ける」という意味で理想だと思う。この場合はまさしく「技術の伝承」である。
「技術」という文字にとらわれず、社会に貢献することは山ほどあるのだから、現役にこだわらずに、個人の得意な分野で貢献すればよい。

ただ、いつまで現役を続けるかは、個人差がある。最近73歳のクリント・イーストウッド監督は、TVのインタビューに「自分の中では引退とは、自分の納得のいくレベルの仕事が出来なくなった時に考える」と答えていた。
なるほどその通りだ。無理して背伸びをしないことだ。歌手で声が出ないのに歌っている姿を見ると気の毒になる。

ちなみに、クリント・イーストウッド監督・主演の「ミリオンダラー・ベイビー」(2004アカデミー4部門受賞)が2006年12月7日TVで放映された。偶然だが、10月に船内でこれを見た。各々の部屋にあるTVに流されていた。見ごたえのある作品だった。

現役が望ましい反面「人生を楽しむ」という観点からは、いつまでも現役が良いかどうか疑問な点もある。現役を続けながら、「人生を楽しむ」ことと、「(ストレスのある)仕事」とのバランスがとれれば一番理想である。
昨年定年退職された方からいただいた2007年の年賀状に「趣味、ボランティア、仕事のバランスを取りながらの第二の人生のはずが、バランスが崩れ趣味の時間が減る一方です」というのがあった。
 万人に共通の回答はないのだろうが、一つの考え方は、徐々に趣味に使う時間を増やすことが良いと思う。そのスピードも人さまざまで良いのではないか。オンリーワンの思想だ。

やはり、自分の時間と、ボランティ活動・仕事などに費やす時間とのバランスも大事な要素である。趣味に使う時間や、家族・友人を過ごす時間は十分確保しておきたい。
ただ、バランスをとる単位を毎日~一週間ではなく、3~6ヶ月くらいの長期の中で考えるとよい。仕事が入れば、趣味は少し後回しでもよいだろう。ただし、仕事に夢中になると自分の時間がなくなってしまうので、あらかじめ計画を十分立てることが大切だ。

例えば、仕事でもボランティ活動でも、引き受ける前に自分のために使う時間をあらかじめ確保した上で、計画を立てることをお勧めする。私は定年後5年間、そうした考え方で過ごしてきたつもりだが、なかなか思うようにはいかない。

バランスをとることは、生き方についてだけでなく、あるべき国の姿を議論するときにも大事なことである。
藤原正彦御茶の水女子大学教授の「国家改造という大それた仕事にとりかかるなら、それに見合った日本の叡智を結集しなければならない」だから、市場原理主義に偏らない、バランスの取れた議論がなされるべきだ、という主張に、「アッ!これだ!」と気がついた。
(「国家の堕落」文芸春秋、2007.1)

 教授は「日本には、お金よりも大事なものがいくつもある」現状では市場原理に偏った議論により「改革の名のもとに、国柄を壊している」日本は、「特殊な伝統や美風といった国柄が、微妙かつ絶妙な『バランス』をもって機能しつつ発展した不思議な国である」という。
 これからの世の中の動きを見ていく上で、非常に参考になる見方だ。既にふれたように「一つの意見を聞いたら、他の意見もある」と考え、他の意見にも虚心坦懐に耳を傾ける、習慣を持ち続けることが大事だと思う。

(「カキクケコ」という標語)
「人生を楽しむ」ためのコツを話し合う自主企画で「カキクケコ」という標語を教えてもらった。カ:感謝、キ:興味、ク:工夫、ケ:健康、コ:恋、だそうだ。
読者の皆さんは、それぞれご自身に合う標語をお持ちだと思う。私の場合、「カキクケコ」に沿って「これからどうする?」と自問自答すれば、次のようになる。

第一に、「感謝」の気持ち。Kさんの私に対する「奥さんに感謝し、生きている間に奥さんを大事にしなさい」というメッセージを大切にしようと思う。
「親切は人のためならず」も大切な言葉だ。近所の奥様が、医者から「一日に一つは他の人に親切なことをしたかを、毎日ふり返りなさい」と言われたという。ボランティア活動も含め、親切にしようという気持ちが大事だと思う。

第二に、これからも、目標を立て、いろいろな「興味」は持ち続ける。油絵も描きたいし、ピアノの新しい曲にも挑戦したい。
ただ、挑戦のテンポは今までより「スロー」で良いと思う。時間の過ごし方をゆっくりする。歩き方は「ゆったり」に変わらないかも知れないが、待つことを楽しめるだろう。

第三に、「時間管理」を身につけて、いろいろな「工夫」を楽しもう。多様な人と付き合う工夫も身についた。

第四に、「健康」第一。今まで以上に、健康に時間とお金を重点的に投資しよう。

第五に、「恋」は「ときめき」「感動」を大切にする、ということだと思う。ハイビジョンで見るNHKの世界遺産も感動するが、ピースボートで訪ねた世界遺産の光景は網膜に焼き付いていて、その感動は違った質の感動だ。この差はCD・MD演奏と「なま」演奏の差に似ている。これからも、「なま」に接する機会を多くしよう。
12月17日NHKの「認知症・・・そのとき、あなたは」で「社交ダンス」は異性の手を堂々と握れるので良い、と言っていたのはこのことだ。社交ダンスの代りに、例えば、若い人々と話すことも良いと思う。

 要は、「人生を、自分流に、ゆったりと、前向きに、楽しむこと」の一言につきる。

船長によるさよならパーティ
10月22日:「DAつSA BoつSAの人生相談」
「DAつSA BoつSA」というのは、二人の若者のニックネーム。名前の由来はよくわからない。彼らの企画する「人生相談」にゲストとして出てくれという。若者たちとのよい交流の機会と思い、Mさんにも声をかけて出席する。
二人は学生で、まじめにこれからの人生を悩んでいるように見えた。ただ、リストラによる賃金カットなど、マスコミで取り上げられる暗い面を強調しすぎるので「マスコミの情報に振り回されないために、2紙以上の新聞や、月刊誌を読むのが理想だ」とアドバイスした。こうした企画に出てこない若者たちのほうが心配だ。

10月24日:船内新聞の航海日誌
船内新聞には航海日誌というコラムがあり、クルージング・ディレクター(ピースボート旅行全体の責任者)Nさんが書いている。100日間欠かさず書くのは、さぞかし大変だと思う。天声人語なども担当の人が何人かいて、交替で書いていると聞いている。

 その中に「昨日、船内であるご年配の方に、この50年間で日本は何が変わったのか、と伺った。その方はなによりも『家族同士のあり方』を例に挙げ、昔はあったご近所付き合いがなくなり、日本人は他人を思いやる気持ちが希薄になったと嘆いておられた。
『出会い』『つながり』これらの言葉は、この旅で得たものとして一番多く聞く、キーワードだ。その言葉通り、まずは家族や隣人との繋がりを再検証することから始めてほしい」と書かれていた。
まったく同感で、今日の航海日誌は、コピーを拡大して壁に貼ってもよいくらいだ。このコラムにはよいことが書かれているのに、若者たちが読んでいるのかなー?

10月25日:収穫祭
 前回の文化祭よりは小規模だが、ファションショーから、フラダンス、ウクレレ、三線、布ぞうり、写経、絵ハガキ世界一周と多彩だ。
 女性にとってファションショーは、見るだけでなく自分が舞台に立てるチャンスでもある。和服姿のシニアも生き生きしている。

 みんなで苦労して飾ったガラスケースの創作粘土も好評だ。先生を囲んで記念写真を撮る。みんなの笑顔がよい。ものを創る喜びが感じられる。
恩師の亡武田豊さん(元新日鉄会長)は、大脳生理学を人事管理に応用された方で「創造力を働かせると、前頭葉の活動が活発になり、やる気を起こす」と言われていた。話が飛躍するが、粘土細工にしろ、料理にしろ、創ることはボケ防止に役立つものと思われる。

このシリーズは「団塊世代100日間世界一周の船旅-定年後のリフレッシュ」(多田 稔著)として文芸社から出版されます。書店でご覧いただければ幸いです。7月初めより店頭に並びます。


2007年5月31日 (木)

ハワイ10月16日:「敬子(ゆきこ)と愛のチェロ」

ハワイ
10月16日:「敬子(ゆきこ)と愛のチェロ」
 Kさんは、亡くなられた奥さんの闘病記と、チェロ演奏について400ページくらいの大作を出版された。その紹介を自主企画され、船に持ち込んだチェロも演奏するオマケつき。熟年が30名くらい集まり、みんな感動。
 ケニアを過ぎた頃、Kさんと食事しながら本の話になり、貴重なこの本をお借りした。いつもと違い一気に読んだ。返す際には、食事のあとデッキで2時間以上、本に載っていない話も聞かせてもらった。

ハガキ大の奥様の写真をポケットから取り出し「ゆきこに、こうやって海をみせてやっているのですよ」と写真を窓から海に向けたときには、ジーンときた。
「健康のありがたさは、失って初めてそのありがたさが分かる」といわれるが、夫婦も同じだな、としみじみ思った。Kさんの話は、私に対する「生きている間に奥さんを大事にしなさい」というメッセージだったのかも知れない。反省しきり。
問題は帰国しても、この感動を忘れないで、素直に振舞えるかどうかだ。「ピースボートの旅行で変わった」と言われるように頑張ろう。

10月17日:しゃべり場「あなたにとっての憲法9条は?」
 ピースボート事務局の主催する企画とは別に、自主企画でも憲法改正のテーマが取り上げられていた。配布された資料によると「憲法9条改憲に反対する『九条の会』(2004年発足)」の立場をとる人の企画だった。企画者の話が多くて、あまり質問や意見を言う人が少なかった。シニアも若者たちの反応もイマイチだった。
私の意見は、憲法改正の問題について、専門家が我々素人に対して、もっと分かり易い説明をして欲しいと願うのみだ。今のままでは、同じ議論の土俵で議論されていないように思える。若者たちが議論に入ってこない、という問題以前のような気がする。

 「安倍内閣は短期政権に終わり、小泉さんが再登場して憲法を改正する」という立花隆の大胆な予想もある。この予想が当たるかどうかも興味のあるところだが、そもそも政治の世界は、コンピューターに乗らない人間くさい要素があるので、予測不可能の世界だと思う。だから政治評論家が食べていけるのだ。

 大学時代、故京極純一教授に「政治とは、ルールの当てはまらない世界だ」と教えられた。政治の世界では「何でもあり」だと言われる。最近の「刺客」の一件では「昨日の敵は、今日の友」という言葉が改めて引用されているが、まさしく政治の世界では、何が起きても不思議はない。予測不可能な世界なのだ。
政治の世界は権力闘争だから「誰が」提言している政策が採用されるかが問題だ。政策の中味、コストには関心がない。特に官僚は、コスト意識がまったくない。企業活動の世界では、企業間で競争しているので、コストを無視して議論は出来ない。ここが政治と企業活動との大きな違いだ。

このシリーズは「団塊世代100日間世界一周の船旅-定年後のリフレッシュ」(多田 稔著)として文芸社から出版されます。書店でご覧いただければ幸いです。7月初めより店頭に並びます。

2007年5月12日 (土)

第八章 サンフランシスコから横浜まで

第八章 サンフランシスコから横浜まで
10月11日サンフランシスコ 
メキシコ観光のあとダラス経由サンフランシスコに合流した。サンフランシスコ空港からバスで市内に入り、ツィン・ピークスはじめゴールデンゲイト公園などの市内観光。
ツィン・ピークスへの途中にはゲイ(注)の地区があって、中にはゲイと宣言するための旗をベランダに掲げている家もある。
ガイドによるとゲイは一目見て分かるという。バスの中から「あのバス停に立っている人はゲイですよ」というが、我々には見分けがつかない。
(注)ホモとレスビアンの総称
「どうしてゲイと分かるのですか?」
「髪の毛を短くしていてこぎれいな人はゲイです」とのこと。

ゲイはきれい好きで家のまわりもきれいにするので、ゲイの地区の家賃は他に比べて高いという。30年前駐在員でニューヨークの郊外の一軒家に住んだとき、落ち葉拾いなどきちんとして家のまわりをきれいにしておかないと、近所から苦情がでた。
その時の理由がきれいにしておかないとその地区の家の値段が下がるからという説明を受けた。同じ理屈に納得。

サンフランシスコの人口80万人のうち14万人がゲイで、しかもゲイが増えているという。きれい好きを集めれば土地・家の値段が上がるからという。
市長も選挙で当選するにはゲイの力がいるので、無視できない。「現在の市長もゲイかと言われた時期もあったが、結婚したと思ったらすぐ離婚。そのあと彼女がいるとかで、何がなんだか分かりせん。まあ、どうでも良いことですが」

ちなみに花屋さんの多くがゲイだという。きれい好きなことと家を花でかざるのが好きなことと関係があるかもしれない。
それにしても、人口の2割近くがゲイとは。また、中国人は20万人というからすごい。しかも、1億円はするという高級住宅の多くは中国人が所有しているという。サンフランシスコはゲイと中国人の街?

フロントで一列に並んでチェックアウトをしていた時。次は私の番だった。後ろには外人の初老の紳士。
私の番になってカウンターで手続きをしてもらっていると、同じツアーの人(日本人)がいつの間にか私のそばにいる。あれー?確かに私の次には外人が並んでいたのに、と思って後ろを振り返ると、その外人が不機嫌な顔をしている。
とっさに「皆さん順番に並んでいるようですよ」と。彼はばつの悪そうな顔をして最後尾に並びなおした。ヤレヤレ日本人の観光客は・・・。

88歳のお兄さんと77才の妹さんが、フィッシャーマンズ・ワーフをゆっくり、ゆっくり散歩していた。妹さんがお兄さんを抱えるように支えて。
観光地のわりには、現地の人も観光客もゆったりペースのフィッシャーマンズ・ワーフ。ここは二人のペースにあった場所のようで見ていても安心できる。

フィッシャーマンズ・ワーフのピア(埠頭)39番には数十軒のレストランやみやげ物屋が集まっている。ツアーの昼食に入ったレストランで、皆が窓に集まって「あー!オットセイがいる」と叫びながらシャッターを切っている。
なんとポンツーン(すのこ状の板などを海の上に浮かべたもの)に数十匹のオットセイが昼寝をしている。そばを観光船が通ってもびくともしない。

ダルメシアンの親子を正装させてベンチに座らせ、観光客に写真をとっている。犬好きにはこたえられない記念写真になる。
例外なく撮影が終わったらワンちゃんを撫でていく。当然チップとして何がしかのお金を渡している。犬権侵害の感じがするが、フィッシャーマンズ・ワーフでは風物詩のように自然に見えるから不思議だ。

このシリーズは「団塊世代100日間世界一周の船旅-定年後のリフレッシュ」(多田 稔著)として文芸社から出版されます。書店でご覧いただければ幸いです。7月初めより店頭に並びます。

2007年4月 9日 (月)

(遺跡の旅)10月5日~9日

(遺跡の旅)10月5日~9日
エジプト・ギリシャ・イタリア・メキシコでは、現地ガイドからそれぞれの遺跡にまつわる神話はじめ歴史のおさらいがあった。古代文明はじめ歴史を勉強し直すきっかけを与えられた点で良かった
特にメキシコでは、Tさんという日本人からは、遺跡のことから世界の歴史にいたるまで、詳しく聞く機会があって大変勉強になった。彼の持論はメソアメリカ地域(注1)、南米にもモンゴロイド系人種がアジアから渡ってきた(注2)ので、いろいろな面で、中国・日本と共通するものがあるという。
(注1)メソアメリカ地域とは現在のメキシコ北部からホンジュラス、エルサルバドルあたりまでのことを指す。南米アンデス地域の古代文明圏と同じように紀元前から数多くの古代文明が栄えた地域だという。
(注2)北からは、氷河時代にベーリング海峡(150メートルの浅い箇所があるという)が干上がっていて民族の移動が可能であった。南回りは海伝いに移動したという説がある。

例えば、ユカタン半島に住む先住民の子孫は体型が「ずんぐり、むっくり」で日本人に似ていると。メキシコ・シティの国立人類学博物館で見た「お香の道具」に相当するものは日本の香炉と考え方は一緒ですと説明され納得した。
また、太陽神はやおよろずの神を信仰する自然崇拝の考え方で、日本と同じである。地下・地上という二元論も東洋の陰と陽の考えと同じである。太陽は地下にもぐり(太陽が地球の周りを回り東から昇り西に沈むように)朝になるとまた地上に現れると信じられていた。
ヒスイが命をあらわす緑色であることは、中国でもメキシコでも同じ。ラストエンペラーで最後のシーンで死んだ母親にヒスイを口に含ませていたという。

テオティワカン(神々の都)はメキシコ・シティーの北に50km程行ったところにある、20平方キロメートルの広大な古代都市遺跡である。紀元前2世紀頃に出現し、7世紀半ばに突然と姿を消したそうだ。何故都市が滅んだのか、いまだに謎は解けておらず、真相は不明である。
数学・天文学など優れた学問を身につけていた人たちはどこへ行ったのか?なぜそうした進んだ文明が滅びたのか?現代文明は滅びないという保証はどこにもない訳だから、万が一滅びた場合には後世の人はどう分析するのだろうか?

太陽のピラミッドの頂上まで、248段あるといわれる階段を、数えながら一気に登る。手すりはあるが、かなり急(傾斜40度くらい)なので降りるときがたいへんだった。
頂上から広場を見下す。祭壇にいけにえをささげる当時の儀式の光景を想像する。遥か15世紀も前に人口20万人程度の大都市があったのか、と感慨にふける。遺跡のガイドブックにはそうした儀式を描いた想像画が描かれている。現実の光景は、観光客がぱらぱら見えるだけ。10月末はオフシーズンなのか。

太陽のピラミッドは、エジプトのクフ王とカフラー王のピラミッドに次ぐ、世界で3番目に高いピラミッドで、その大きさは一辺が220m、高さが65mもある。このピラミッドの頂上には神殿が建てられ、宗教儀礼が行われたと言われている。現在、神殿はない。

パレンケはマヤ古典期の代表的な遺跡のひとつ。4~10世紀に栄えた都市。「この遺跡の「碑文神殿」と呼ばれるピラミッドの下から、マヤで初めて王墓が見つかったということで有名」とガイドブックには書いてある。
しかし、ガイドさんは例外だと言っていた。どの程度例外なのか専門的なことは分からない。ただ、メキシコ・シティの国立人類学博物館で王墓の模型を見ることができた。エジプトの玄室のようなものだった。
この王墓に葬られていたのは、パレンケの黄金時代を気づいたパカル王と言われている。パカル王は615年にわずか12歳で即位した。日本で言うなら大化の改新前後に頑張っていたことになる。

ウシュマルは7世紀の初頭に栄えた。チチェン・イツァーより小規模で、ピラミッドは丸みを帯びている。南北800メートル、東西500メートルのジャングルの中に「魔法使いのピラミッド」や「尼僧院」、「総督の館」、「大ピラミッド」などの数々の遺跡が散在している。

遺跡に行く途中のメリダの街に、野口英世が黄熱病の研究に取り組んだ「オーラン病院」があった。野口英世の功績は、今でもメキシコ住民に高く評価されているという。
没後、日本の有志の方が病院の前庭に銅像を建立し偉業を讃えている。みんな鉄格子のフェンスのわずかな間からいっせいにシャッターを切る。

ガイドが自己紹介の中で「自分が30年メキシコに住んでいてうれしいのは、日本人がメキシコ人に尊敬されていることです。今でも日本人というだけで尊敬の眼で見られるのは、日本の経済力・技術力と先輩たちの功績のお陰と感謝しています。」言っていた。
きっと野口英世も当地で尊敬されていたのだろう。私も日本人として誇りにできるしうれしい話だ。

チチェン・イツァーとは、マヤ語で「泉のほとりのイツァー人」という意味である。ユカタン半島最大のセノート(聖なる泉)を中心にして栄えたことからこう呼ばれている。
旅行案内書には、この泉にいけにえを投げ入れた、と説明されている。しかし、ガイドによると実際に人を投げ入れたわけではないという。旅行案内書だけを見ていると信じてしまうところだった。

戦士の神殿の上にあるというチャック・モールは、かなり遠くに離れないと見えない。時間があればこの上にも登れるのに残念。今回の遺跡の旅は本でいえば「目次」をさらっと見るだけの旅になった。それでもこんなにいっぱいまとめて見る機会は他には考えられない。

次回4月末

第七章 メキシコ

第七章 メキシコ
メキシコは国土の面積が日本の5.3倍もあるのに、GNPは80兆円と日本の2割にも満たない。しかし資源は豊富で政治も最近は安定しているので、ラテンアメリカ諸国の中では住み良い国らしい。
資源の一つに原油がある。ユカタン半島の北側に海底油田があって世界の8位の生産量である。オペックに入っていない重要な国である。
しかしガソリンの値段は1リットル約70円と産油国としては高い。理由は(サラリーマン以外の)高額所得者が税金を払わないので、ガソリン税を通じて高額所得者から税金を徴収する、という考え方だそうだ。

 塩も資源のひとつ。メキシコの北バハ・カリフォルニアの大規模な塩田から大きなタンカーで日本に輸出されている。用途は化学工業用である。
さらに規模を拡張する計画があったが、ここは鯨が子供を産み育てる場所になっていることから、環境保護団体の強い反対が功を奏して取り止めなったという。地球保護も根付いてきた感じがする。

 現地ガイドのTさんはメキシコ在住30年、ガイド暦10年のベテラン。彼はメキシコの資源と日本の頭脳を組み合わせれば大きな発展が期待できると考えた時期があった、という。
 しかし、メキシコが自然に恵まれており、バナナ、パパイヤなどの果物、魚など食べるに困らない環境にある為、日本人がメキシコに住みついたら日本にいる時のように働かないのではないか。だからうまくいくとは限らない、と考え始めるようになったとのこと。

 例えば、Tさんのお父さんが鳥取からメキシコに訪れた際に釣りに連れて行って「入れ食い」であまりに簡単に魚が釣れるので、さすがに釣り好きのお父さんも5分もすると「つまらないから帰ろう」と言ったとか。

10月5日:アカプルコ
アカプルコは年間300万人程の観光客が訪れる、メキシコを代表するビーチ・リゾート。エルヴィス・プレスリーが主演した映画「アカプルコの海」(1963)が有名である。仙台市の国際姉妹都市でもある。

アカプルコはメキシコ・シティの保養地となっている。週末になるとメキシコ・シティのスモッグを避けて別荘に大勢の人が訪れる。
海抜2、240メートルの高地にあるメキシコ・シティは涼しい、アカプルコは北緯19度の海岸だから暑いと思うのだが。スモッグを避けたいのだろう。

 寄港地のアカプルコからバスでメキシコ・シティに向う。街にはカブトムシ(フォルクスワーゲンの愛称)が目につく。燃費もよく小型で小回りがきくからタクシーには向いている。 現在はメキシコでの生産は中止されているが人気の車だという。
日本のサニーは人気があり、現地名で「つる一号、二号、にんじゃ、さむらい」等と名前が変わってきた。「こうせいのう(高性能)」という面白い名前もあったとか。

 支倉常長の銅像がアカプルコの大通りの分離帯に立っている。ガイドによると、支倉常長は伊達正宗の命を受けて、カトリック教布教の許可をローマ教皇から得るためにメキシコ経由イタリアへ向ったという。
当時徳川幕府のキリシタン弾圧の時代だったため、許可は得られずこの計画は失敗に終わった。しかし支倉常長は後に仙台市の名誉市民になっているという。

 メキシコ原産のものがいくつもある。さつまいもはメキシコからフィリピンにわたり、そこから薩摩に渡って「さつまいも」となった。
とうもろこしはメキシコ人の主食「トルティージャ」の原料になる。実を水に一晩漬けておき、石うすで粉(ギョーザの皮のようなもの)にして焼く。その上に肉や野菜の具をのせて食べるのがタコスだ。
 かぼちゃはスーパーでメキシコ産という表示をみかける。アボガド、(アップル)マンゴー、ヅッキ-ニと数えるときりがない。中でも重要なのはカカオである。

 カカオの実は硬くて腐らないし運びやすいので、長い間お金の代わりになっていた。税金をカカオの実で納めていたという。メキシコ・シティの国立博物館にも他の貨幣と並んで陳列されていた。

しかしチョコレートにするにはミルクが必要で、メキシコにはミルクを出す動物(牛、ヤギ、羊、馬など)がいなかった。だからチョコレートはスペインなどの貴族だけが食べる高級食品として製造され、メキシコ人の口には入らなかった。
カカオの実は普通の木のように、枝の先につくのでなく幹につく。収穫するには竹ざお状のもので叩き落すのだそうだ。

 韓国産のまったけはおなじみだが、メキシコもまったけを日本に輸出しているという。ただ、最初にまったけを日本に輸出しようとした商社マンが「出来るだけ大きいのがよい」とだけ現地人に説明しため、大きすぎるのを集められて困ったという。もちろんメキシコ人にまったけを食べる習慣はない。

2007年3月30日 (金)

10月2日~3日:グアテマラ(プエルトケツアル)

10月2日~3日:グアテマラ(プエルトケツアル)
グアテマラは、勝手に私だけの安息日とした。次のオプショナルツアー「メキシコ7日間」がこの旅行一番のハイライトなので、体調を万全にしておきたいと思った。そこで予約していたグアテマラでのツアーをキャンセルして休むことにした。
ところが、あとで聞いてみると、マヤの遺跡「ティカル」がすごく良かったという。「シマッター」と思ったのは後の祭り。事前によく調べれば、ティカルがマヤ最大の遺跡という。ツアーの選択は難しいものだ。

40度くらいの猛暑の中、1時間もかかる街には出ないで、観光客相手の市場で買い物をする。といっても、パナマと同じで、岸壁に隣接してみやげ物屋が10軒くらい並んでいる。グアテマラ特有のきれいな原色のテーブルクロスを大小10数枚買う。
珍しい油絵のような絵を見つけた。特殊なラッカーのような塗料で仕上げてある。45ドルを35ドルに値切ったが、どうしても40ドルという。みのもんたのクイズ番組ではないが「これがファイナル・アンサー?」と念をおしたら、売り子は画家に携帯で相談するという。画家から委託されて売っているので、任された値段以下では売れないのだろうと思った。結局40ドルで妥協する。

船内でのんびりしたのは、久しぶりだ。食堂も食べる人が少ない。みんなツアーに出払っている感じ。普段表情を顔に出さないウェイターも、今日は笑顔だ。いそがしいストレスがないからだろう。
 ターミナルで買い物を済ませ帰船すると、部屋の掃除をしてくれるTさんが、ハワイのTシャツを着て出かけるところに出くわした。普段のクルーとしての制服姿と違い、いきいきとしていたのが印象的だった。

20歳代の男性とテーブルが一緒になった。
「どこまで出かけたの?」
「街まで1時間歩いて行ってきました。タクシーもあるけど高いし、歩くといろいろな人に会えるので楽しいです」
「昼はどうしたの」
「地元の食堂で、といっても小屋みたいなところでしたが、ハンバーガーのようなものを食べました。ついでに床屋があったので、散髪もしてきました。3ドルでした」
「どんな髪型にされるか心配ではなかった?」
「写真が飾ってあって、どれにする?と」
「なるほど」
「泳げるとことを見つけたので、明日は泳いできます」
若い人の行動力には脱帽。この若者は、120%旅を楽しんでいる。こういう話を聞くのも、また楽しい、

グアテマラも貧しい国のようだ。外務省のホームページによると「平成16年度、水道普及率は40%台と言われている。グアテマラ政府は、貧困層が多く居住する地方部の給水改善を目的とした地下水開発計画を策定し、平成16年度日本政府に対し、同計画の実施に必要な無償資金協力(5.37億円)を要請した」とある。

10月4日:創作粘土
 創作粘土の後半のクラスに参加した。特殊な粘土で、乾くと落としてもこわれない位の強度があるという。粘土の種類・メーカーの名前を控え帰ってから作れるといい。孫との対話の材料が増えた。
作品は、ブローチにチャレンジした。ただ、乾燥させるのに一週間はかかるというので、メキシコに行っている間に、先生に作ってもらうようお願いした。「文化祭」にあたる「収穫祭」というのが、旅の後半あるので展示してもらえると記念になる。

アマンダさんというアメリカ人と知りあい、異文化コミュニケーションについて共通の関心があることが分かった。アマンダさんは、GETの英語の先生。高橋尚子さんが練習している、コロラドのボーダーに住んでいて、日本人のビジネスマンにも英語を教えているという。
「男女のコミュニケーションの差」という題で自主企画をするので、是非出てくれという。2~3人に声をかけて話を聞いた。彼女の話によると、コミュニケーションをとるときに「女性は人間関係を大事にし、男性は仕事を優先する」という。この分野についての専門書を紹介してもらった。アマゾンなら手に入るだろう。

---次回は4月中旬掲載予定です・・・

第六章 ジャマイカからグアテマラまで・・・パナマ運河

第六章 ジャマイカからグアテマラまで・・・パナマ運河
9月25日:ジャマイカ
 トパーズ号が着岸したところから150メートルくらいのところに、シュノーケリングに行く双胴船(タカマラン)が待っていた。総勢100名近くが2船に分かれて乗船。シュノーケリングのポイントまで50分。屋根がついていなかったので、南国の真夏の強い日差しがきつかった。帆の陰を求めて移動。
船長が舵を取っているそばに、ほら貝があったので皆で吹いてみる。「スースー」という音しか出ない。見かねた黒光りした船長が吹くと、ハワイのディナーショーの前に合図として吹くような「ブオー」というたくましい音色となるから不思議だ。

 途中イルカが船を追うように泳いでくる。数頭はいた。あわててDVDとデジカメを取り出す。揺れるのでフラフラして良い写真が取れない。DVDをトパーズ号に戻って編集したら、ほんの数秒間だけイルカが写っていた。あの状態では精一杯。よしとしよう。

紺碧色の海でシュノーケリングが出来て大満足。熱帯魚のような、色鮮やかな魚に目をこらす。日焼けも気にせず海に浮かんでのんびり過ごす。
ところが「こんな海はたいしたことないわ。OOの方が珊瑚もきれいだった」という声が聞こえてくる。せっかく人が楽しんでいるのに。
ポンペイの博物館でも「OOの美術品と比べたら、たいしたことはないわ」という参加者がいた。こうした発言をする人はどこにもいるものだ。たとえそう思っても口にしないことが礼儀。「他人のふり見て我がふり直せ」の諺どおり、自戒の念をもって聞いていた。

9月28日~29日:パナマ運河
パナマ運河の大西洋側の入り口は、コロンという都市。その名前のいわれは、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスにあるという(注)。世界で第二の自由貿易の都市だそうだ。
完成に至るまでには、紆余曲折があったようだ。フランスが最初に建設に挑戦したが失敗。その原因は黄熱病・マラリア対策を誤ったという。フランス政府はアリがこれらの病気の媒体と思い込み病院に水をまいたが当然効果はなかった。建設の犠牲者約30,000人の大半は病死だと言われている。後にアメリカが引き継いで、正式に開通したのは1914年だそうだ。
(注)スペインの方から見れば発見だが、ラテンアメリカから見ると侵略だという見方があり、メキシコやコロンビアから参加した通訳の人は、侵略の側面を強調していた。

パナマ運河を通過する船の数は1.2万隻弱、貨物で年間2.5億トン。1日30隻の計算になる。通行料は年間7億ドル弱というから、アメリカが手放したくなかったのはわかる。スエズ戦争も、スエズ運河の権益をめぐる戦いだった。

この運河の特徴は、閘門(こうもん)システムという特殊な仕掛けで、海抜26メートルの高さの山(実際にはガトゥン湖という湖)を、船が越えるところにある。閘門チェンバーという巾33.5メートル、長さ304.8メートルある巨大な鉄の箱に、通過する船舶を乗せて、その箱の中の水位を調節して箱から箱へと移していく。詳しくは、運河庁のウェブサイト(注)で見られるからすごい時代だ。
この巾が通行可能な船の大きさを制限している。最大規模は、巾32.3メートル、喫水(水面より下の船体の深さ)12メートル、パーズ号の巾は27メートル、全長94.1メートルに規制されている。これが、いわゆるパナマックス・サイズといわれる。
(注)http://www.pancanal.com

運河を通過するのに、8~12時間かかるが、待機時間を含めると24時間かかっている。過去に最速で通過したのは、アメリカ海軍のホーバークラフトが1979年に2時間41分で通過したという。さすが海軍である。優先的に通したのだろう。

パナマの治安は非常に悪いらしく、政府は観光客のために、客船ターミナルにみやげ物屋とパナマの踊りを見せる、観光客専用スペースを整備している。不安全な街から隔離して、みやげ物を買える場所を作ったのである。
観光客から見ると大変便利で、スリなどの心配をしないで買い物が出来る。ただ、普通の人の生活を自分の眼で見たい、という観光客の期待にはそえていない。土着民が上半身裸、ボディ・ペインティング状態で、みやげ物屋に立っている姿は痛々しかった。稼ぎになるので連れてこられた、という雰囲気で彼らの目に生気が感じられなかった。 

パナマ運河では、ソベラニア公園へのエコツアーに参加した。ソベラニア公園は、パナマ運河のほぼ中央、コロンからバスで1.5時間の所に位置する熱帯雨林である。
我々がバスで船に帰ろうとした時に、しのをつく熱帯雨林特有の強いシャワーに見舞われた。我々はバスの中だったので幸い助かったが、30分くらい遅れてスタートした別のグループは、ずぶぬれだったに違いない。しかし、こんなシャワーもここでないと経験できない。

ツアーは、葉切りアリやトランペット・ツリーなど、他では見られないものを見られた。ただ、もう少しジャングル風の所かと期待していたが、パナマ運河建設当時に、工事用の道路として使用していた道を散策するにとどまった。
参加者の年齢層にも巾があるので仕方ないことと割り切る。

トランペット・ツリーと言うのは、通称「ナマケモノの木」。その理由は、この木の樹液が薬に使われ、その成分に麻薬的な効果がある。だからその薬を常用すると、ナマケモノのようになるから。
幹は空洞になっていて、たたくと硬い音色がトランペットのような音色がする。みんなで実際にたたいてみて納得する。参加者はみんな好奇心が旺盛だ。


2007年3月14日 (水)

9月19日:洋上運動会 

9月19日:洋上運動会 
洋上運動会は普通の運動会と違って、赤道直下のやけるような日差しの下で行われた。乗船客の6割近い約500人が参加した。最近は職場の運動会がなくなったので、みんな懐かしい思いで参加したようだ。
狭いデッキを走り回るのは、怪我をする危険がいっぱいだ。大きい縄跳びの練習で骨折した人がいる。それでも、日ごろの運動不足解消とばかり、みんな張り切っている。私も何事も参加することに意義がある、と50年ぶりに綱引きの足をひっぱる。参加すれば楽しい。

9月20日:運動会のゴミはリサイクルします
「回収にご協力下さい。ハチマキ、ペットボトルをピースボート・センター前にお持ち下さい」という。平和と同時にみんなの関心が高いのは、環境問題だ。自主企画に「エコ・チーム」というグループがあって、如何に船内でゴミを出さないか真剣に考えている。
売店には「環境に配慮して、商品を包んだり、袋は出しません」という掲示がある。900人も乗っていると、ゴミの量もはんぱではない。一人ひとりが気をつけなければいけない。船内でどのように処理しているのか興味のあるところだ。

「午後茶」の時間には、マイカップを持参で集まる。はしを持参している人もいた。アジア、中南米の国では、これらが役に立つという。ツアーでレストランによっては、衛生管理が不十分のところもある。自分の身は自分で守ろう、か。
私もはしを持参したが、使わなかった。雑菌に慣れているから大丈夫だったのだろう。マイカップも気にはなりながら、テーブルに用意されているコーヒーカップを使ってしまった。

9月21日:「70才が一人でフェズの迷路に挑戦した話」
 70歳のFさんは、背の高いがっしりした体格だ。バイキングの朝食の皿は山盛りで、周囲の人の目をみはらせる。「朝しっかり食べないとね」と、70歳には見えない。
 私が新日鉄のニューヨーク事務所に駐在していたころ、亡くなられた永野重雄さん(当時70歳くらい)がニューヨークに来られた。所員との会食の際、隣の奥様から制止されても箸がすすんでいたのを思い出す。元気な方は健啖家だ。

 Fさんは旅なれていて「地球の歩き方」の情報を土地の言葉を2~3メモしながら旅行するという。カサブランカからフェズまでの列車は、一日に一本だから早朝船を飛び出す。旧市街の案内人やホテルの手配も、現地についてから一人でやるからすごい。

 「いままで危険な目にあわなかったですか」という質問に「事前の調査はしっかりやります。それに、金目のものは身につけないこと、カメラは親からもらって二眼レフのみとする」と余裕の回答。

9月22日:「日の出とともに日食を見よう」
 日の出の部分日食を見られるのは珍しい。前日の船内新聞の記事を見落とし、いつもの朝食をとっていると、みんな一斉にデッキでカメラを構えている。ハッと気がついたときには、朝日が昇りかけていて船室にカメラをとりに帰る時間がない。
 フェズでのFさんではないが、親からもらったカメラに部分日食を収めた。しかし、これは再生がきかない。天文学に進みたかった長男の顔が目に浮かんだ。「そんな機会をのがすとは・・・」という声も聞こえてくる。
 翌朝の船内新聞に「日食の写真をとられた方、データを貸して下さい」という伝言を載せてもらう。偶然、私と同じキャノンのデジカメを持っている人を見つけ、PCに移させてもらう。

9月24日:文化祭
 文化祭は、自主企画の成果を発表する良い機会である。船内新聞の1ページいっぱいに催し物が載っている。企画名の中には、太極拳、空手、ダンス、ウクレレ、写真展、絵手紙、お茶会、写経、折り紙・・・とあらゆるものがある。
私も健康講座の「総集編」をすることにした。シリーズ6回分をPCにまとめ、プロジェクターを借りてプレゼンテーションする。中味が違うだけで、仕事でやっていることと似たような作業なので楽しい。

 健康講座の「総集編」は1時間では足りないくらいだった。生来こんなおしゃべりではなかったのだが、人事の仕事を長年やっているうちに、変わったのかも知れない。
母親が聞いたらびっくりするだろう。いつも母親に「あんたは話し方が下手だ」といつも言われていた。確かに、今でも自分で「まわりくどい表現」をすることがある。家族からは「主語がない」と言われている。

「創作粘土教室」という自主企画があった。私とよく話をするMさんもブローチを出品している。粘土とは思えない光沢と重量感にびっくり。主催者に「すばらしいですね。二回目もされるのでしょう?」ときくと「粘土を乾かすのに時間がかかるので、後半は出来ないかもしれません」との答え。是非やってみたいものだ。
絵手紙も展示されている。たしかピアノ教室の人が、絵手紙をしていたはずだ。これも後半チャレンジしてみよう。こうして他のグループの作品を見ながら、旅の後半は何をしようかと考える。
---次回は4月初め掲載予定です・・・

9月15日:カナリア諸島、エコ・トレッキング

9月15日:カナリア諸島、エコ・トレッキング
イベリア半島から1840キロメートル離れた、北回帰線のやや北、北緯28度にある。北大西洋上に浮かぶ「常春の楽園」「大西洋のハワイ」と呼ばれる。火山島で地質学的にも特色があり、起伏が激しくバラエティーに富む自然環境に恵まれている。
平均気温は夏24℃、冬17℃と冬でも暖かい。乾燥した気候と美しい海岸のため、年間を通じてヨーロッパ中から人が訪れる、格好のリゾート地。スペインの自治州の1つなので、海の上では西に進んでいるのに、時差を一時間逆に戻すことになる。逆時差といわれる。

トレッキングしたロケ・ヌブロ(Roque Nublo)までは、途中の2回の休憩を含めて一時間弱の初心者向けコースだった。空は抜けるようなフレンチ・ウルトラ・マリーン色。
ロケ・ヌブロの登り口に露天の店が出ていた。サボテンの実とアーモンドのパックとラム酒を買う。ラム酒は試飲したらすごく甘かった。
サボテンの実は初体験。いちじくの感じで少し甘い。帰りのバスの中から、山の斜面にいっぱい実をつけているサボテンをカメラにおさめる。走りながらシャッターを切ったので、10枚目くらいにようやく満足のいく写真が撮れた。撮ってすぐ出来具合を見られるので、デジカメは便利だ。

ロケ・ヌブロへ行く途中ランザロート(Lanzarote)という村があった。ここは昔こういう名前の島が、噴火により水没したときに、その島の住人がこのグラン・カナリア島に逃げてきて作った村だという。大島の噴火で東京に分散して避難していた人が、「大島町」を作ったようなものだ。
このとき現地ガイドさんから「日本の富士山も昔噴火したのですよね。いつが最後の噴火でしたか?」と聞かれた。バスに乗り合わせた30名のツアー客は、誰も答えられなかった。日本のことも勉強しなければと反省しきり。

ロケ・ヌブロの頂上まで、空の色はぬけるような、絵の具では表現できない色。マリーンブルー、それとも、フレンチ・ウルトラ・マリーンブルー?
アメリカのグランド・キャニオンには及ばないが、すばらしい景観だった。眼下に広がる小さな村はグランド・キャニオンとは異なる雰囲気で、村の家々が見える。いかにもこれがトレッキングという実感を楽しんだ。

雲が目の前を移動していく様は、雲の上の人になった気分。ハワイ島だったか、山頂にバスで登り、そこで撮ったパノラマ写真が、我が家の居間の壁に色あせて残っている。
ハワイと違い、眼下の景色がツヅラおりの道と、オレンジ色の家並みと段々畑が素朴な島の生活を想像させる。

9月17日:ディズニー・ランドの舞台裏 
ディズニー・ランドに働いていたTさんが「ディズニーの舞台裏」という企画で話してくれた。ディズニー・シーの建設にたずさわられて、日米の習慣・考え方の差を調整するのに苦労されたとか。
例えば、照明の明るさの基準が、アメリカは日本より暗い。その原因が「ひとみ」の違いにある。アメリカのひとみは、青い色をしていて、明るい光に弱いという。なるほど、アメリカのレストランや家庭の証明は、間接照明が多くうす暗い。メニューも読めない。

「香港のディズニー・ランドが成功しなかった原因は何ですか」と質問したら「地元の中国人のマナー悪く、暑いので裸で見物するとか、歩きながら食べるとか、外人の評判が悪かったからだと思います」という。今は人気も回復していると。
「ミッキーは何人いるのですか?」という意地悪な質問に「いちばん多い質問なのですが、これは企業秘密なので答えられません」と。

9月18日:「しゃべり場 仕事白書」
 これはピースボート事務局の企画で、若者たちが多く乗っているので、ピースボートうってつけの良いテーマだ。関心のあるテーマなのか、100人近い老若男女が集った。
休憩をはさんで3時間半という長時間にもかかわらず、活発な議論が交わされた。ただ、大きなテーマなので、結論は出なかった。
若者の中には「自分は今フリーターです。親に食べさせてもらっています。将来は、子供に食べさせてもらいます」という、笑いを取るためとしか考えられない発言もあった。これを除いてはまじめに悩んだ時間だった。

「自分で何が出来るかを考え、仕事に必要な知識・スキルを身につけることが大事。そのための勉強は最低条件。企業は競争しているから、能力・経験のある人材を求める」と今更ながらの話が必要だった。
「友達が作れないくらい夜遅くまでやっても、家賃月5万円を払ってギリギリの生活でした。帰国後も仕事のあてはありません。不安でいっぱいです」という、30代の女性の悲痛な訴えには答えがなかった。

20歳代が40%乗っているこの船は、日本の縮図のようだ。「自分の好きなことをしたい」というだけで、何も努力していない。いつまで今の状態を続けられると思っているのか?早く「親はいつまでも生きていないのだ」という事に気づいて欲しいものだ。
私が、中学生の息子たちに「親はいないと思え」と言ったのは、息子たちにどう受け止められたのだろうか。その後「『親はいないと思え』という割には、いつもうるさいよね」と言っていた二人も今はもう30歳後半だ。

9月12日~13日:モロッコ

アラビア語で「モロッコ」を「アル マグレブ(AL-MAGRIBと紙幣に印刷されている)」という。「マグレブ」とは「陽の沈むところ」という意味だそうだ。ちょうど日本を出てから50日あまり、日本の裏側に到着したことになる。
モロッコは、古代にはフェニキア、ローマなどの支配を受けたのでそれらの遺跡もある。7世紀にはアラブ人がモロッコ、イベリア半島まで達し、イスラム教が浸透した。ムーレイ・イスマルが、1660年にメクネスにアラウィー朝を確立し、現在まで続いている。

ムーレイ・イスマルは、フランスのルイ14世と親密な関係を築いた。ルイ14世から贈られたという二つの時計もモスクに残っている。
その間1912年フランスの保護領下におかれたが、1956年ムハンマド5世が、フランスに王位継承権を渡すことで、内紛などのない無血で独立を果たした。これはアフリカの独立運動の中では、めずらしい例だという。

ちなみに、国王はイギリスや日本と違って、政治の実権を握っている。大臣の全てと、議会の総議員330の三分の一を任命できるし、軍も掌握している。
そうかと言って、専制君主ではなく、政党が28もあり言論の自由もある。王政と民主主義のバランスをうまく取っているように感じたが、一観光客には本当のことは分からない。

現在の国王モハメット6世は45才で、4年前に結婚した相手の女性は、アメリカに留学してコンピューター、テレコミュニケーションを勉強した才媛だとか。彼女のすすめもあってか女性の地位向上が著しく、現国王は「女性独立のシンボル」として親しまれている。
女性に離婚の道を開いて、裁判所に訴えられるようにした。男の虐待が証明されると、男は罰せられるという。国民の信頼を得ているようだ。

もっとも「国王がジェットスキーを趣味としていて、全国に25もの別荘を持っている」という説明をするときのガイドの心境は、どのようなものだったろう。
現地ガイドのモハメッドに「モロッコの良い所と悪い所を教えて下さい」と質問した。良い所は「親切な人が多い。景色が良い。サハラ砂漠だけでなく農地も豊か」、しかし「政治家はお金を自分のものにする。貧富の格差が大きい。25%は貧困で20%は富裕層」だと。

表立った不満の表現は使わなかったが、婉曲に政治家を批判していると感じた。エリトリアから水先案内人が二人来ていたので、同じような質問をしたとき、二人がお互いにけん制するような発言だったのを思い出す。言論の自由は一朝一夕には得られない。

  映画「カサブランカ」に出てくるサハラ砂漠が頭にあるので、モロッコは砂漠ばかりかと思っていた。しかしその気候は、地中海気候でブドウの生産に適している。ワインをヨーロッパに輸出している。トマトなども輸出しており、ヨーロッパの台所だ。
タコやもんごイカを日本に輸出しているという。東京出身のHさんによると、東京のおすし屋さんはモロッコのタコはおいしい、と言っていたそうだ。

農業が主産業でGNPの70%を占めるとのこと。もっとも土地の75%は国が所有しており、農業からあがる利益の75%も国に収めなければならない。農民は豊かではないようだ。
貧富の差が大きいようなのに、他のアフリカ諸国のように内紛の話も聞こえてこない。不思議な国だ。現状に満足しているのか、国のやり方がうまいのか。
 
(フェズ旧市街)
フェズ旧市街は、9世紀に北アフリカ初のイスラム国家の都として建設が始まった。その後1000余年を経てた今も、15万人が暮らす「生きた世界遺産」だ。最大の特徴は、1000筋ともいわれる複雑に入り組む路地。
フェズの迷絽の市場は、人一人がやっと通れる程の道幅しかない路地。無数の細かい路地が縦横無尽、網の目のようにどこまでも続く。一歩道を間違えると、二度と同じ場所に戻れないのではないかと錯覚する。
輸送機関として、ラバが細い道を堂々と行き交う。大きな荷物でかわいそうな感じ。ここでも多くのネコに出会い、我が家のサンや亡シロを思い出す。

 「バラク!バラク!」と聞こえたら「ロバが通るので道をあけてくれ」という意味だから、協力して下さいという。大きな荷物をのせて、相当早いスピードで駆け抜けていく。道幅が2メートル位しかないので、荷物にぶつけられる。
日本人と分かるのか「ロバ!ロバ!」と叫ぶ人もいた。実際にはロバよりも、ロバと馬のあいのこのラバが多かった。
もちろん、みやげ物を売る人は日本語が得意で「安いよ」はまだしも「ビンボー・ビンボー(貧乏人の値段という意味か)」というのには脱帽。いったい誰が教えたのだろう。

なめし皮工場の臭いは強烈だ。皮の臭いか、皮をなめす薬品の臭いか分からない。入り口でミントの葉をちぎって渡される。それを鼻にこすりつけるようにして見学した。
それでも息苦しいほどの独特の臭い。これはDVDでも伝えられないものの一つだ。ここで買った太鼓は、皮の臭いがきつくて、帰ってから日干しで乾燥させないと使えないかもしれない。(ずっと外に置いてあるが、12月末でも、まだ臭う。)


(サグラダ・ファミリア)

(カサ・ミラ)
ガウディが設計したカサ・ミラを外から見学した。カサ・ミラはミラさんの家(カサ)という意味だそうだ。約400坪の6階建てマンションを思い浮かべてもらえばよい。その頃は家主が2階に住み他のスペースは他人に売っていたが、家全体の名前は家主の名前をつけた。
ミラさんの奥さんは、ガウディがデザインした、二階の自宅の家具・内装が気に入らなかったらしい。そこで1926年にガウディが死ぬと、翌1927年には家具・内装を全部取り替えてしまった。 
 歴史的にみて残念なことだ、とガイドが嘆いていた。ガウディのデザインした家具の一部は、ガウディ博物館に展示されていた。独特の曲線は、人により好き嫌いがあるのではないかと思った。イスなどはうねりの部分が片付けるのに邪魔で、普通のイスに比べたら余分なスペースがいると思う。ミラさんの奥さんが気に入らなかったというのも理解できる。

(サグラダ・ファミリア)
 サグラダ・ファミリア(聖家族教会)聖堂では人ごみも多く、時間も少なかったのであまり印象に残った話はない。1882年、フランシスコ・デ・ビリヤルが計画に着手。翌年、若干31才のガウディが2代目聖堂建築家に就任、以後43年間の人生をすべて聖堂造りに費やした。
 彼の構想では、聖堂の外側にイエスの「生誕」「受難」「栄光」の3つのファサード(正面)が建ち、各ファサードは4本ずつの鐘塔をもつ。計12本の塔は、それぞれ使徒を意味する。また、4人の福音書家を表す4本の鐘塔の交差の上部に、イエスとマリアに捧げる中央塔が建てられ、計18本の塔がそびえる壮大な教会である。

 完成しているのは、地下聖堂と後陣、「誕生」「受難」のファサード、8本の鐘塔のみ。ガウディの死後も工事は続けられ、100年後の完成と言われている。100年後の完成というと気の長い話のように聞こえるが、すぐ近くにあるカテドラル教会は、建立までに400年以上かかっているそうだ。
サグラダ・ファミリアに関して重要なことは、ガウディの残したオリジナルの設計図・模型等は全て無くなってしまっているということ(注)。よって、今作っている部分の細かいデザインは、現在手がけている建築家・彫刻家の腕に依るところが大きいそうだ。
ガウディ自身が手がけた「生誕のファサード」が参考になっていることは間違いない。ガウディにとっては、細かいデザインなど、自分の意の通りになっていなくても何ら問題ないのかもしない。
(注)帰国後「田中裕也さんは、ガウディが図面を描いていなかったことを知った。そこで自ら世界遺産に指定された、5つの設計図を描いたところ、その功績が認められて、ガウディの故郷に広場を設計することになった」という記事が目に留まった(朝日新聞2006-11-20)。

三重県志摩市にあるスペイン村のような、みやげ物屋の集まった場所がある。いつもの自由行動で皆買い物ざんまい。夕方食事のあと、フラメンコの踊りがセットでついていた。
本場のタブラオ(踊りの店)でのフラメンコに一同酔いしれる。約2時間たっぷり楽しんだ。東京で見たより迫力を感じた。観光客の情熱的な拍手・歓声に踊り子も刺激されるのではないかと思う。

「フラメンコはスペイン南部の文化で、バルセロナを始めスペイン北部にはフラメンコは根付いていない」と旅行案内書にあった。ただ、バルセロナはスペイン北部でも圧倒的に観光客が多く、アンダルシア出身の住民も多いことから、タブラオが街中にあるということらしい。これも一観光客にはどうでも良いことで踊りを楽しめばそれで十分。

9月10日:運動会のチーム集まれ
 船内は運動会の準備で忙しくなってきた。東京は長野県や富山県と一緒のグループとなる。グループごとに応援合戦もある。その準備に東京の人は10人くらいしか集まらず、もうひとつ盛り上がらない。
地方の人のほうが結束が固い。人数が少ないからまとまりやすいのかも知れない。参加することに意義があるのに、もったいない。

 参加した人は大声で「さん!さん!七拍子」と叫ぶ。となりの部屋からも元気な声が聞こえてくる。リーダーは「青組に負けないように頑張りましょう!」と必死だ。小学校で声をからして応援したのが脳をよぎる。そう言えば応援が好きだった。

9月11日:「9.11」を振り返って
 5年前にニューヨークで起きた、同時多発テロを振り返る企画があった。フランスの哲学者ジャン・ポートリアールの言葉を引用して「多発テロを実行したのは彼らだが、それを望んだのは我々だ」
 「冷戦後は、アメリカの『一人勝ち』だった。強力な軍事力、経済力をもって、アメリカの理想を世界に広げようとし続けてきた。これによりもたらされたものが、多発テロだ」という主張だ。

 大筋理解もし、同意する部分もあるが、フランス人のアメリカ嫌いの臭いも多少感じられる。今後もアメリカだけでなく、EUの動きにも目を離せない。


第五章スペインから カナリア諸島まで

第五章スペインから カナリア諸島まで
9月9日:スペイン
バルセロナで着岸した場所の近くに、コロンブスの銅像が立っている。ガイドは「今までコロンブスは、ジェノア生まれのイタリア人と言われてきた。しかし最近は、スペイン人だったのではないか、という説がある。
理由は二つ。一つはイタリア人(のインテリ)ならラテン語のたしなみがあるはずなのに、コロンブスはラテン語を知らなかった。
二つ目は、コロンブスは報告書をスペイン語で書いていた」と説明していた。真偽のほどは我々観光客にとってどうでもよいようなことだが、銅像を説明する格好の話のタネにはなる。

(バルセロナ)
ガイドブックにはバルセロナの人口は170万人となっているが、ピーク時は180万人、現在は160万人と減少している。住宅の値段の高騰から、郊外に出て行く衛星都市化の現象がバルセロナでもあるとか。
市内で中古マンションが6千万円もするが、郊外では新築でもその三分の一だそうだ。街のつくりが神戸と似ている(山からすぐに海辺になるところ)から、1933年から姉妹都市の関係にあるという。

ガイドは「この国では祭日に国全体の祭日と、州・市のそれぞれ違う独自の祭日と3種類ある。だから、バルセロナでは祭日でも、となりの市では平常どおり働いていることがある」と説明していた。こういうところに、地方色・独自の歴史・文化を残す意思が感じられた。

 選択したツアーが「ガウディとバルセロナ市内めぐり」だったせいもあるが、一観光客の私にとって、バルセロナはガウディ一色の街だった。ピカソ美術館やオリンピック競技場もあるし、見たいところだらけだが、一日のツアーではガウディだけで終わった。
しかも、目次をさーっと見ただけだった。しかし、現地ガイドが、ガイドブックに載っていない話をしてくれたので面白い一日だった。

現地ガイドと言っても、日本人とスペイン人の二人がバスに乗る。イタリアでもそうだったが、スペインでも必ずその国の人が添乗するが、説明はしない規則になっているという。監視役でもなく、単に失業者対策としか思えない。カンボジアでは、カンボジア人で日本語の出来るガイド一人だった。

(グエル公園)
最初に立ち寄ったグエル公園では「60棟建築予定だった郊外の住宅構想計画(注)が、2棟完成しただけで失敗に終わった。「おかげで、今日こうしてガウディの作品が見られるのです。歴史では何が幸いするかわかりません」というガイドの説明がおもしろかった。
(注)甲子園が4つはいる位の広さ。

完成した2棟は、今で言うモデルハウスのようなものだったそうだ。奇抜なデザインのためか、その内1棟しか売れず、1棟はガウディ自身が買い取って住んでいた。
それが現在はガウディ博物館になっていて、当時の家具・調度品・ガウディの描いたデッサンなどが展示されている。家具もガウディ独特のカーブがついていた。思ったよりも狭い建物だった。

もう一つは今でも民間の人が住んでおり、グエル公園全体(注)を自分の庭と心得ているらしい。ずいぶん贅沢な借景である。
島根県にある足立美術館の庭園でも、背景となる山々を借景としている。文字通り「借りる」ために、山の持ち主に対して、美術館は相当な金額を払っている。その代わり借景をそこなう建物を建てない約束になっていると聞いた。
(注)バルセロナ市が住宅予定地全体を買い取って市民公園とし、税金で樹木などを整備している。

 公園の広場には、うねった形の蛇行形ベンチが周囲を取り囲んでいる。ベンチは色とりどりの、破砕タイルが埋め込まれている。ベンチのうねりは、地中海の波をイメージしたものという。
座った人が自然な姿勢で、お互いに話し合える位置に座れるように工夫したという。実際に座ってみて納得した。トカゲの噴水も、その奇抜なデザインが印象に残っている。

こうしたガウディのアイデアは、いろいろな所に見られる。例えば、郊外なので予定していた60棟の住民のための市場を、この公園の下に想定していた。
一方、庭木への散水用の水を雨水でまかなうこととなった。そこで雨水を、この市場となる予定の天井部分に貯水できるような構造にした。公園全体の地面で水を受け止めるように、公園には水を通しやすい砂利を敷いてあるそうだ。公園全体はドーリア式の柱86本でささえられている。俗に100本の柱と呼ばれる。

2007年3月 2日 (金)

(ポンペイ)

(ポンペイ)
ポンペイでも他の遺跡と同様、修復工事が目立った。ファインダーの向こうの遺跡は、クレーンとほこり防止のテントの風景に溶け込んでいる。修復工事中の遺跡群といった感じである。
遺跡の保存・修復に時間と金のかかることは、アンコールワットでも見聞した。2年前に行った佐渡島のお寺は、有名なものを除いて損傷がはげしく、今にも朽ち落ちそうだった。保存の為の金が回ってこないのだと説明された。

紀元1世紀の頃、カンパニア地方の中核都市であったポンペイの人口は、一万人を超えていた。劇場や円形競技場、公衆浴場などが整備され、その繁栄を謳歌していた。
紀元79年、ヴェスビオ火山の大爆発により、一瞬にしてその時を止めた永遠の町、それがポンペイ。なんといってもこの遺跡の特徴は、住居跡、パン屋、浴場、劇場など、街がまるまる一つ地中から現れたということ。そして、この街に住む人々の息吹が、今でも遺跡全体に残っていることだ。

爆発のとき、逃げ遅れた人々は、火山灰の中に毒ガス等で埋もれて死んだ。火山の噴火によって滅んだのに、なぜここまで完全な形で残っていたかというと、土石流などが無く、灰が静かに街を覆い隠したからだという。
後に発掘されたとき、遺体の肉の部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。考古学者たちは残酷なことをするものだ。
顔の表情まで詳細には再現できなかったが、これらのうちのいくつかからは、恐怖の表情が想像できる。母親が子供を覆い隠し、火山灰から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も、生々しく再現されている。見るのも痛々しい。
 
日本人の現地のガイドが良いことを言っていた。「皆さん、柱一本の遺跡から、当時の神殿の様子を想像して下さい。皆さんの想像力で、当時の様子を頭に描いてみて下さい」
絵葉書の中には、現在の写真と当時を想像して描いた絵が対比してあるものがあった。遺跡の解説書にもこうした絵がときどき見られる。

(イタリア人の男性)

「イタリア人の良いところと悪いところは?」という質問に対してガイドのMさんは
「良いところは、何事にもプラス思考で明るい。悪いところは、公衆道徳がないこと。自分の家はきれいにするのに、外では平気でごみを捨てる」
「警官もあまり真剣に働いていないように見受けます。特にナポリでは、すり・かっぱらいが多いので、皆さんも十分気をつけた方がよいですよ」
「なぜそんな風になってしまったのですか?」
「経済状態もよくありません。移民・難民が多く、イタリア人以外の人の犯罪も多いのですよ」

日本人の女性ガイドMさんは、イタリア人の男性についてきかれて「よく女性をほめる。これは子供の頃からの習性。偉いと思うのは、結婚してからも美しい、愛していると結婚前と変わらない調子で言い続ける。とにかくよくしゃべる」
「良い悪いではないが、イタリア人の男性はマザコン。結婚しても母親に一日7~8回電話をかける。かしこい男性は、奥さんの前で1~2回かけ(1回もかけないと冷たい人間と思われるから)職場で5~6回かける。何の用もないのに「やーママ元気」だけなのだが」
(帰国してこの話をしたら「電話をもらったら、かえってうるさく迷惑だわ」という反応があった。)

日本でも、育った家庭の味を奥さんに期待するという話があるが、イタリアでも同じらしい。おふくろの味でないと、同じになるまでおふくろに訊けという。
几帳面な母親に育てられ、ワイシャツはもちろん、靴下にまでアイロンかけてもらっていた男性は、出張先で洗濯に出すと縮むので、そのつど新しい靴下を買っていたという。アイロンをかけない奥さんだと、おふくろに(アイロンつきの)洗濯を頼む。イタリア人の奥さんも、そうされることを気にしないらしい。

またこのガイドは「イタリア人には、喜怒哀楽の『哀』が欠けている」という面白い観察をしていた。思い切り大げさに喜びと怒り楽しみを表現する反面、「哀」の表情を見たことがない」
「それとイタリア人は、手足を動かさないと会話が出来ない。話しながら必ず手足を動かしている。指で数える方法も日本と違う。ガイドのいとこが三才になるが『ぼく何才?3才?』と日本流に人差し指、中指、薬指を出すと、きょとんとしている。そして、1、2、3と親指から順に人差し指、中指と数える」とのこと。たしかアメリカもこれと同じだ。

---次回は3月中旬掲載予定です・・・

9月3日~4日:クロアチア(ドブロブニク)

9月3日~4日:クロアチア(ドブロブニク)
イタリアを対岸に望み、アドリア海に面したドブロブニクは「アドリア海の真珠」と称えられてきた。旧市街は、14世紀東西貿易の要衝として栄えた、自治都市の面影が色濃く残されている。
石畳は大理石で建物は花崗岩である。レンガ色の屋根と紺碧の空の色彩のコントラストが美しかった。絵にしたい写真がいっぱいある。もう一度訪れたい場所の一つだ。
 
周囲の長さわずか2キロメートルほどの小さな街。しかしここには、14世紀以来、ヨーロッパで最初に作られた薬局や、孤児院などの福祉施設があり、上下水道などの公共施設も充実している。
その背景には、貿易で利益をあげた商人たちが、その金を独占することなく、街のために使ったことがある。ドブロブニクの人々は、大国のひしめき合う中、自分たちの自治都市の独立を守るため、もっとも大切にしたのが「自由」だった。戦争を忌み嫌い、商才と外交能力で解決してきた。1979年には世界遺産に登録された。

9月6日~7日:イタリア(ナポリ)
「ナポリを見てから死ね(Vedi a Napoli e poi muori)」ゲーテをはじめ様々な人々が、かつて王国の首都であったこの都市を賞賛している。
しかし、実際にこの眼で見ると、伝えられるほどきれいな街ではなかった。戦争の弾痕が残っているビルは、放置されたまま。そうしたビルにも最近まで人が住んでいたという。

バスの窓から見ただけでは街の全体を判断できないが、ゴミも散乱しており、遺跡らしい石像に、スプレーのようなもので落書きがある。まるで一昔前のニューヨークの風景である。
 この街は、ギリシャ時代のネオポリス(ネオ:あたらしい+ポリス:国家)から始まり、ノルマンの王国時代、スペイン統治の時代、ブルボン家の時代などを経て現在のイタリアに統一されている。
ありとあらゆる時代を経験してきた、イタリアでも屈指の歴史的な街であるといえる。ナポリは様々な時代のかたまりだ。治安さえ悪くなければゆっくり観光したい街。

 ナポリには100年の歴史のある地下鉄もあるが、最近新たな地下鉄工事が着工された。しかし、掘るうちに遺跡にぶつかったので、遺跡の保存を優先して工事が進まないという。そんなことは計画する段階で十分分かっていたはず、と現地のガイドさんの指摘はきびしい。
アテネでは「ミニ博物館」のある地下鉄の駅が多いそうだ。地下鉄工事の際に出土された遺跡を、駅ごとに作ったミニ博物館に展示してある。バスからもそうしたミニ博物館が見えた。市民は博物館に行かなくても、地下鉄に乗るついでに世界遺産を見学できる。さすがは遺跡の街であると感心。

「ナポリではクーラーは要らないのですか?」という質問に「クーラーをつけている家はあまり多くありません。ナポリの夏休みは3ヶ月と長いわりに、暑い期間は6月の一ヶ月だけで7月になると涼しくなります。
それと働く男の人は、一ヶ月くらいしか休みませんが、家族は3ヶ月別荘(日本の別荘というのではなく、アパートの部屋という感じ)を借りてナポリを出ます」とガイドさん。

「それにクーラーは20万円位で、公務員の月収10万円の二倍ですから、イタリア人は一ヶ月がまんしてそのお金を別に使います」緯度からすると、ナポリは40度より少し北だ。日本では岩手付近に相当するので、夏の期間も短いのだろう。

「ビルとビルの隙間に、ロープを渡して洗濯物を干している風景を、TVなどでご覧になったことはありませんか?今では法律で禁止されているので、残念ながらそうした風景を見られません」というガイドの話の直後「ああー、今日はめずらしく干していますねー」と。

ナポリといえば、スパゲティ・ナポリタンとかピッツァを思い出す。ナポリ風のピッツァといえば、北部のパリパリっとした薄いピッツァとは異なり、モチモチっとしたやや厚手の生地のピッツァが特徴。
一番のおすすめはベーシックな、トマトソースとバジリコとモッツァレラ・チーズで作った、マルゲリータだという。モッツァレラ・チーズも、水牛の乳から作るのがオリジナルだが、現在は普通の牛の乳からも作られているとか。我々は、水牛の乳から作った、本物のモッツァレラ・チーズの味というのは知らないのだと思う。

2007年2月16日 (金)

船内で出会った人たち・・・つづき

船内で出会った人たち・・・つづき
週一回ビデオショーと称して、その週に船内で起きたいろいろな出来事を紹介するプログラムがある。通称「ハヤリー」と呼ばれている17才の男の子がインタビューされていた。
彼は舞台に引き出されて、自分の映っていたビデオの感想を聞かれると、顔をおおって恥ずかしがっていた。中学時代にいじめを受け、親の勧めでピースボートに乗ったという。

「命をもらった親を殺す、という記事を見るとやりきれない。楽しく過ごすことが平和だと思う。船に乗って、本当の自分が見えてきたように思えてうれしい。いい自分になることを目指したい」と感想をもらしていた。
このハヤリーとは8階のトレーニング・ジムでの顔なじみ。「ビデオショー良かったね」と声をかけると「いい経験をしています」という返事が返ってきてホッとする。

もっとも、ハヤリーの場合はただ単に「親に行ってこいといわれたから、ピースボートに乗った」というのだから、まだ旅の持つ意味を分かっていない。日本に帰るまでに気がつくかどうか。

日本に帰ってから、この話を聞いた50代の友人は「そんな若者たちがいるから、日本は良くならない。それどころか将来が心配だ」と。私も全く同感で、私と同世代の人々と「なげかわしい。どうしたらよいだろう。是非若者たちと交流したいものだ」と言いながら、そのチャンスはあまりなかった。

(ゆうゆう定年後を楽しむ人々)
66才退職1年目のMさんは、旧都銀出身者で大変な勉強家だ。パナマ運河通過までに、放送大学のレポートを提出しなければならない。ハワイには留守番をされている奥様から、次のレポート用の教科書が数冊届くことになっているので、帰る前に読み終わらないといけないという。放送大学は2年目で、今は「EU論」の勉強をしているそうだ。
一眼レフのデジカメを持参されていた。デジカメなので撮ったらすぐ出来ばえを見て、いろいろな構図で撮られていた。きっとカメラ歴は長いのだろう。帰って写真展を開かれたらどうですか、と勧める。観光地でMさんに写真をたくさん撮ってもらった。この機会をお借りしてお礼を申し上げたい。(2007年2月MさんとUさんと久しぶりに再会し、昼食をとりながら旅行の思い出話に時間の経つのも忘れた。こうした新しい友人も今回の旅の大事な副産物だ。)

Hさん(60才(注))は姉妹で乗っていて、オプショナルツアーも一緒で楽しそうだ。Hさん姉妹は、私のおやじギャグを分かってくれて、食事時の話し相手(聞き役?)になってくれた。
時々どちらか一人で食事をしているので「お姉さんはどうされたのですか」と尋ねると、「船酔いで寝ています」と。また別々の講座に出たりするので、必ずしも終始一緒という訳ではないようだ。数組の姉妹が乗っているという。兄弟は聞かない。
(注)船内で還暦のお祝いをしたので、この年令は確かだ。

Iさん(70才くらい)のお姉さんは、船が嫌いなので一緒に乗らなかったという。クロアチアの自由行動で一緒になり、城壁の下で泳いでいるあいだ荷物を見てくれた。
「私の姉はお金持ちだけれど、どこにも旅行しないの。私は病気で医者にお金をかけるより、こうして旅行している方がよいと思う。参加して良かった」と。

(若者たち)
 25才のYさんは大学院生で、夏休みの延長でピースボートに乗ったという。クロアチアで下船。友人と二人でイタリアへフェリーで渡り、レンタカーでフランス、スペイン経由モロッコ(カサブランカ)で我々に合流した。ホテルは予約せず現地に着いてから探した。
ただ、車のトラブルはあったらしい。イタリアでは前のミラーを壊され、スペインではホテルの駐車場にとめておいたのに、レッカーされて警察に行ったり、大変だったとのこと。若くないと出来ないチャレンジだ。

20代後半の女性とテーブルが一緒になった。「沖縄出身なのですけど。ピースボートも乗るまでは、三線を見たこともありませんでした。自主企画の講座で勉強し、文化祭でみんなの前で弾けるようになりました。沖縄のお母さんに電話してこの話をしたら、とても喜んでくれました」という。いい話で。
自主企画には、素人が参加して、その成果を文化祭で発表する。ウクレレも人気講座の一つだ。中には、トランプ・マジックを水先案内人のプロから教わり、みんなの前で披露する人もいた。

20代の男の子に「旅行代金は、アルバイトでもして稼いだの?」と訊いたら
「おばちゃんが100万円貸してくれました」という。
「出世払いという言葉を知っている?ちゃんと返すのだよ」と諭すと
「わかりました」
「旅行の感想をおばあちゃんに報告している?」
「ハガキを出しています」
「そう。ときどき報告したら喜ばれるよ。君の体の中には、おばあちゃんのDNAが四分の一は入っているのだから、君の見ている景色をおばあちゃんも見ているのだと思うよ」

---次回は2月末 掲載予定です・・・

第四章 イスタンブールからナポリまで

第四章 イスタンブールからナポリまで
8月29日~30日:イスタンブール
ドルマバフチェ宮殿は、オスマン朝スルタン最後の居城だそうだ。海に向って建つ、緑豊かな庭園と贅をつくした造りの建物。ハーレムだった広間も見せてくれた。豪華な家具のかずかず。シャンデリアは5トンあるという説明だった。 
贅沢の裏に庶民の犠牲を感じた。イギリスやフランス、どこ国の宮殿や城も同じで、当時の為政者の力を誇示している。観光客は、つい目の前の豪華な家具や装飾品に、目を奪われてしまう。

 トルコ人は、日本人に親近感を持っているという。ピースボート参加者の数人から同じ印象の話を聞いた。そのうちの一人が「100年くらい前に、和歌山県の串本沖でトルコ人の乗った船が転覆し数百人死亡した。そのとき串本の人が多勢のトルコ人を助けた」という話が、トルコ人の間に言い伝えられているという。その他、トルコの敵のロシアに、日本が日露戦争で勝ったからだという説もある。
 
イスタンブールではベンツの車が目立った。トルコはドイツの経済圏にあるからだという。大勢のトルコ人がドイツに出稼ぎに行っているという。
日本でも出稼ぎの外国人労働者が増えているが、いずれ多数の外国人を受け入れることになるだろう。外国人とどう付き合うか、真剣に考えないといけない時期が近い。

8月31日:スリの被害
エジプト以降の寄港地で、すり・かっぱらいの被害の話題が多くなったようだ。要するに、日本人は狙われているということだ。
Kさんは、イスタンブールで財布をすられた。「このことだけでトルコが嫌いになった」と言っていた。私は幸い被害にあわなくてすんでいるが、話を聞いていると他人事ではない、と気を引き締める。
 
ローマの地下鉄に乗った三人が、それぞれ被害に遭っている。一人は小型カメラを目の前でひったくられそうになった。ひもをつけておいたので犯人はあきらめたらしい。二人目はかばんを鋭利な刃物で切られ財布を盗まれた。三人目は体の前に抱えていたウェストバックに新聞紙をかぶせられた。おかしなことをするな、と気づいたときには既に遅かったと。
 
スペインの百貨店では、レジで値切ろうとやりとりしている間に、腰の後ろにまわしていたポーチから財布を盗まれた。後で考えると店員がわざと注意をそらせていたのではないか。店員がスリと仲間ではないかと言っていた。
もっとも、日本に帰りパチンコ店の入り口に「ひったくり多発!」とあった。ローマやイスタンブールのことをとやかく言えないと思った。

9月1日:ギリシャ
一日という短時間の滞在だったこともあり、期待していたほどでなかった。ガイドの声が小さく聞こえなかったのも影響している。神話の話が多く「神話は日本に帰ってからでも勉強できる」と不満の声も出る。
靴のメーカー、ナイキのロゴがチェックの形をしているのは、天使の羽をイメージしたものだそうだ。英語でNike(ニケ)は勝利の女神だとか。

アクロポリスでは、ナップサックもバスに置いていかないと入場できない。他の観光地に比べて厳しい規制だった。また「昼食に時間がかかってもギリシャ時間と考え、せかさないで下さい。我々が手伝うと、ギリシャ人はプライドが高いので機嫌を損ないます」という説明が事前にあった。観光させてもらっている、という感じがした。

(「私は、心の傷を癒すために乗ったの」)
 屋上のデッキで、じっと海を眺めているシニアの女性に声をかけた。私の健康講座に出てくれた人らしく「ミノルさんの健康講座は面白かったわ。でも、私はこの船に心の傷を癒すために乗ったの。
だから次の健康講座は『こころの健康』について取り上げてほしいわ」という。初対面なのに、率直な話をしてくれて感謝の気持ちと、大胆な発言にびっくり。

 確かに、船旅の動機は人さまざまである。子供に「お母さん、今までの苦労のご褒美に行っていらっしゃい」と言われた、というほほえましいケースもある。中には、ご主人が亡くなられて直ぐに申し込んだという人もいた。女性は強い、と改めて思った。
 後日、このシニアの女性の要望どおり、「こころの健康」を開いた。特に、「うつ」と「ボケ」の問題について、みんなの意見を聞く会となった。

9月2日:船内で出会った人たち
 健康講座を開いている関係か、おなかをこわした顔見知りのKさんに「どうしたらよいでしょう?正露丸は飲んでいるのですが」と尋ねられた。「船医さんに診てもらうのが一番良いと思います」と素人判断はよくないと説明する。
「私の持参した薬でよろしかったらお使い下さい。売店で売っている抹茶入りくず湯も良いかもしれませんよ」とアドバイス。信頼関係がないとうっかりアドバイスはできない。

Kさん、通称「鴨ちゃん」には乗船してすぐ知り合った。Kさんは技術系らしくどっしりした感じの70才の紳士で、声を掛け合っている仲間の一人だ。にっぽん丸などにも乗船経験があり、船内では囲碁クラブの会長をしている。毎日10数人集まる人気プログラムだ。
社交ダンスも教えられるらしいが、80才の先輩が教えているので遠慮されているのか、囲碁に専念しておられた。GETプログラムにも参加しており、朝食にテーブルが一緒になると”Good Morning!”から始まって英語で食事。私も勉強になった。                                                                                                                                                                            

2007年1月30日 (火)

(私の「彼岸」)

(私の「彼岸」)
私の現在の「彼岸」は別荘である。別荘を買ってもう5年になる。気がついてみると別荘と東京の生活を、温泉を除いては同じような環境にしようとしている。
例えば、ピアノの練習用にエレクトーンを持ちこみ、油絵の道具をワンセット置いてある。まだ東京ですることが多くて、伊東では油絵を一枚しか描いていない。友人に言わせると、本当に油絵が好きだったら他のことをおいてでも描くべきだと。確かにそうかも知れない。

精神面では、夢の世界は一時的な来世・死後の世界ではないかと思う。夢と彼岸との差があるのは、夢がさめるとこの世に戻るが、彼岸(来世・死後の世界)は永遠である。
法事やお盆に親族が集まるという風習は、日本の良い伝統だと思う。親族が集まり、在りし日の亡くなった人をしのぶのは、亡くなった人と現世の人と会話しているとも解釈出来る。

最近の親戚の法事で、義母が「お父さんの肉体は天国に召されたけれど、魂は毎日私たちのことを見守ってくれている」としみじみと話していた。
我が家でも、毎朝愛犬2匹の写真を前に「今日も一日家族を守ってね」と話しかけている。その瞬間には、ロッキーとコロの魂は我が家に戻っているのだと思う。

 自分は、遺伝子という観点からは、半分子供に乗り移っていると言えるのではないか。だから、死後も息子の魂の半分を借りて、引き続き世の中を見ることができる。
そう考えれば「死」後、肉体は土にかえるが、精神・魂は子供の心に(勝手に)移るのだから怖いことではない。死を恐れて心配する時間があったら、せいぜい今を楽しむ時間を大事にしたい。

 船内のスピーチ・コンテストでのこと。コロンビア3世のSさんが「今ピースボートで旅行しているのを、天国にいるおじいちゃん(日本人)も一緒に見ていると思う。おじいちゃんありがとう」と日本語でスピーチして観客は大拍手。同じ発想をするものだと思った。彼と話してみたい。
 中野孝次の「ガン日記」(文芸春秋2006.7)には、次のように書かれている。「衰えつつも一日一日をよろこんで迎え、日々何かの楽しみを見つけなければ、生きていても詮なし。晴れやかに、快活に、日々を生きよ、と自分に向って命ず」

さらにセネカを引用して「人生がどこで打ち切られようとも、わが幸福なる人生に何一つ欠けるものはない。幸福なる人生とは、心に不安がないこと、不動の内的な平安があることだ」と。
ガンを告知されると誰しも「なぜ自分だけが」という反応をする。セネカは「誰かに起こりうることは、誰にでも起こりうるのだ」と言う。これは正しい指摘だが、いざその場面になると人間は弱いのだ。
 よく「あと1年の命と宣告されたら?」というが、私は「あと10年の命」と宣告されるのとでは大差ないと考えている。あと1年だから一日一日を大切に生きる気持ちを、10年間持ち続けることが大切なのだ。でも、人間それがなかなか出来ない。まだ10年もあると考えて無駄使いしてしまう。

(王家の谷)

新王国時代になるとファラオ(王)たちは、ピラミッドで盗掘されるのを防ぐため、ルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地を求めた。これが王家の谷である。
王家の谷の外観は、ピラミッドの壮大さに比べて、西部劇に出てくるような荒涼とした砂漠。インデアンが崖の上から銃で狙っている光景を思い浮かべてもらえばよい。中王国時代には、ミイラにつけていた宝飾品が盗掘の対象となり、ミイラは放置された。
ここでも略奪は避けられなかったが、ツタンカーメン王の墓は、質素だったから盗掘をまぬがれたという。それでも、その副葬品が5千点ともいわれ、カイロにあるエジプト考古学博物館の2階の半分を占めている。

 バスで移動中、降雨量がゼロの土地に青々とした緑が続く。灌漑技術が優れていたといっても、ロバが動力で簡単な水車を回してナイル川から水を汲み上げるもの。
ラスベガスも砂漠の真ん中に作られた町である。現在はカジノを中心とした観光業が栄えている。ここはコロラド川から大きなパイプラインで水を引いているので、エジプトとは灌漑の仕掛けの規模が違う。
 エジプトがラスベガスと違う所は、ナイル川が上流の肥沃な土地を運んできたので農業が栄えた。エジプトのほうが生活のにおいがする。

(ギザのピラミッド)つづき

(ギザのピラミッド)つづき
玄室の前には現地の老人が座って、観光客の写真を撮っている。ガイドからの事前の説明では、こうした人はチップで生活しているから、US1ドルのチップを渡すようにとのことだった。
1ドル札を先に渡しながら頼んだら、ニコニコとあいそが良かった。入り口の石だけが、そうした写真を撮ってもらう観光客がさわるので黒ずんでいる。その石をさわった二枚目の写真は写っていなかった。残念。

代わりに二番目に大きい、カフラー王のピラミッドの玄室に入った。カメラはガイドに預ける規則になっている。このあとの王家の谷の見学でも、カメラ撮影禁止となっている所が多かった。
ところが、王家の谷で「カメラは持ち込んでも良いが、撮影は禁止」という墓で、我々の参加者の中で若い人が、こともあろうかフラッシュをたいた。監視人が飛んできて何か言っている。若い人と一緒だった熟年の人がしきりに説明している。

こんな光景を遠くから見てしまったので後味が悪い。よく「見なければ良かった」ということがあるが、まさしくその一例である。
あとで参加者の一部で話題になり「近頃の若いものはけしからん」という反応から「お金で解決するのですって。だから監視人がウロウロしてるのよ」と反応はさまざまだった。
その後その若者の姿が、なんとなく元気がなかったのは「しまった」と反省しているのだろうか。それとも?今後の旅行での彼の態度を観察しよう。

昔は「ピラミッドは奴隷に働かせて作った」というのが定説だった。現在の通説は、ナイル川の氾濫時期で農業が出来ない農閑期に、クフ王が農民に公共事業として作らせたという(報酬も与えた)。クフ王は世界で最初の公共事業をした人だ、とガイドは自慢していた。
完成するのに40年かかったというが、作業していたのはナイル川の氾濫時期(7~10月)の4ヶ月だけだから、実質5年の建設期間だとか。それにしても平均2.5トンの石灰岩を230万個も、気の遠くなるような数である。

ピラミッドを見学する順番は、必ずしも古い時代から順を追ってというわけではない。最初に案内された、この第一ピラミッドはクフ王の墓。クフ王の時代は古王国時代(第4王朝)。
ガイドが最初にエジプトの歴史を詳しく説明していたのは、時代によりピラミッドの形が違うからだということが分かった。後に見学した第3王朝時代のサッカラのピラミッドは、階段式ピラミッドといってその作り方が違う。
(*)古王国はおおよそ紀元前2500年から2000年のあいだ。第3~6王朝。

エジプトの神官の大事な仕事は、王のミイラを作ることだった(注1)。遺体は必ず復活するというのが古代エジプトの考えだ(注2)。
王の来世の生活を可能にするために、現世で使っていたものを副葬品として、ミイラと共に埋葬した。
(注1)ミイラの作り方:心臓以外の臓器(胃・腸・肝臓・肺)を目・鼻・のどから取り出し、カノプス壷に入れてホルマリン漬けにする。そのあと乾かしてリネンを巻く。2~3ヶ月かかるという。
(注2)彼岸の世界が西の方にあり、そこで永遠の生をうけると考えたので、王国から西方の地に墓所を設けた。死者の身代わりであり、死者復活のときに精霊が宿ってよみがえるべき肖像は東向きにおかれた。

「マスタバ」(アラビア語で「ベンチ」を意味する)とはピラミッド上部を水平に切り取ったような台形の墓のこと。マスタバの上に釣鐘状の4段ピラミッドが築かれギザのピラミッドへと変わっていった。
時代がすすむにつれて、マスタバには内部空間を持つものが現れた。そしてついにはピラミッドを取り囲む「住居」へと変化した。

この住居は、故人の生前の住居を模したもので、故人の私室のほかに家族のための部屋があった。玄室(「王の間」)の前に供物と副葬品の部屋があり、地上へと通じる井戸穴の上に「偽扉」と故人の像のある部屋(注1)がある。
偽扉は、祭祀を執り行う部屋のすぐ後ろにあった。死者は、偽扉を通して清め・開眼・開口などの儀式を見守っていると考えられていた。このようにして、家族は生と死と超えてコミュニケーションを保ち、家族関係はこの世と「彼岸」の間で保たれていたのである。(注2)
(注1)「彼岸の世界:死後の国」は太陽が沈む西方にあると考えられていたので、この部屋はマスタバの西側にあった。この考え方はアンコールワットでも同じ
(注2)「エジプト」日本語版、2001 CASA EDITRICE BONECHI Firenze Italia ISBN 88-8029-700-7)

こうした考え方は、前から聞いていたが、遺跡を目の前でみながら説明を受けると、なぜか感動した。特に「家族は生と死と超えてコミュニケーションを保ち、家族関係はこの世と『彼岸』の間で保たれていた」という部分は、自分の今後たどる道と重ねてみた。

小学校のころは考古学に少し興味もあったが、勉強する機会がなかった。今回の旅行で、5千年の歴史を持つエジプトの世界遺産を目の当たりに見て、古代エジプトについての本とDVDを買った。
ツアーから船に戻って、昨日までこの眼で見てきた遺跡・壁画・像とDVDの映像・本の写真とを見比べてみる。改めて考古学に興味を持った。これから時間をかけてゆっくり勉強しようと思う。


第三章 スエズ運河からエジプトまで-1

第三章 スエズ運河からエジプトまで
8月24日:ムバラク平和大橋

スエズ運河通過の前日、NHKのXプロジェクトで放映された「1970年代の運河拡張計画を請け負った、水野建設の物語」のビデオが上映された。非常に硬い岩盤のため難工事だったそうで、水野建設が開発した「カッターチップ44D」というモリブデン合金で乗り切ったとか。
日本がスエズ運河の難工事に協力したこと、運河をまたぐ橋を無償供与(2001年日本政府開発援助)した歴史もあり、日本とエジプトの関係は良好だそうだ。

「ムバラク平和大橋」は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶ唯一の橋である。この橋は、日本との友好関係を象徴して通称「日本アラブ友好の大橋」と呼ばれているという。
橋の中央にエジプトと日本の国旗がはためいている。旗をカメラに収めながら、なにか日本を誇りに思える一瞬だった。

船内放送がこの橋は「鹿島建設・新日鉄・日本鋼管の共同で建設された」と伝える。新日鉄の名前になつかしさを覚えると同時に、今は日本鋼管の名前のない企業競争の厳しさも感じた。
橋などの構造物の建設への経済援助(上記、日本政府の開発援助)は、目に見える形で残るので後世の人々も理解しやすい。

8月25日:スエズ運河通過
通過に12~14時間かかる。2時間も巾があるのは、途中にある湖で反対に進む船団とすれ違うなど運河ならでの制約があるからだ。

改修工事で、巾は80メートルから倍以上の160~200メートルに広げられ、大型船も通行可能になった。これも、ビデオで紹介された「水野建設」の貢献なのだろう。
運河内では13ノット(約時速23キロメートル)と制限されているが、意外と速く感じられる。「ムバラク平和大橋」を橋の真下からカメラに収めようとしたら、すぐに通過してしまった。

トッパーズ号のスエズ運河通行料は1千万円だという。スエズ運河を通過する船の数を考えると、いかにその権益の大きさがわかる。1869年の完成後6年後に英国に売却され、英国はその後数十年間にわたり莫大な利益を得た。
エジプトはその権益を取り戻すべく、1956年ナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言した。これをきっかけに、第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発。米ソが英・仏・イスラエル三国を激しく非難し、エジプトの外交的勝利に終わったという。
歴史的な出来事が起きた現場にいる、という意識で若干緊張した瞬間だった。

(アラブ商人)

スエズ運河は171キロメートルと長い水路なので、水先案内人も4回も替わる。驚いたことに、アラブ商人がタグボートに乗ってトパーズ号に乗り込み、みやげ物を船内で出張販売する。おそらく運河通行にあたっての契約の中に、そうした販売を認める条項が入っているのだろう。
エジプトには「人口の数だけのアラブ商人がいる」という諺があるくらい、アラブ商人はしたたかだと事前の説明を受けていた。今のエジプト人は、イスラム教を信仰するアラブ人。陽気で人なつっこい一方、観光客に高い値段をふっかけると悪評も高い。しっかり値切るように指導があった。

8月26日~28日:エジプト
(ギザのピラミッド)
「間もなくピラミッドが見えてきます」のガイドの声にハッと眼を覚ます。朝が早いのでバスに揺られて、ウトウトしていたらしい。
アパート群のすぐ後ろにピラミッド。こんなに民家に近いところに世界遺産があるなんて!いつもTVで見る光景とは異質だった。トイレ休憩したレストランから、バスでたったの2~3分。

 ピラミッドの前で、ラクダに乗った写真が記念になる。希望者はまとめて事前にガイドに2ドル払う。だからラクダを引っ張ってくれる人には、チップは払わなくてよいと言われた。
 それなのに、写真を撮り終わるとガイドの見えない位置で、さかんに「バクシー(チップ)」と要求する。思わず「ガイドさーん」とどなったら手を引っ込めた。
他の参加者も同じようにチップを要求されたという。若い女の子は「私は投げキッスをしてごまかしたわ」と。たくましい限り。

エジプトには108のピラミッドが発見されたという。その中で最も有名なのは、ギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)だ。これは、高さ147メートル(注)、底辺230×230メートル。
近づくと威圧される大きさだ。5千年(4500年前の建造)の歴史を感じて興奮するはずだった。しかし意外と冷静だった。
理由はTV・ビデオの映像で、何度も見ているからだろうか?最近のコンピューター・グラフィックの映像を見ていると、あたかも自分が画面に溶け込んでしまい、その場にいるかのような錯覚をおこす。
石段を登るときも、どこかの岩場を登るような感じで、世界遺産の上に立っているという意識はなかった。観光客の列に入って、後ろからせかされた状態だったからかもしれない。
地下にある王の遺体を納めたと思われる、玄室までは見られなかった。ここは一日に先着300人に制限しているので、前泊者で朝早くから並ばないと見られないという。


2007年1月18日 (木)

(水先案内人)

(水先案内人)

水先案内人のTさんは、1998年にエリトリアを訪問した。その頃は国連軍が入っていたので、金回りがよいのか物乞いがいなかった。今回少し物乞いがいたのが残念だと。
「経済が軌道に乗るのには、大分時間がかかりそうですね」
「エジプトと戦争している間はダメですよ。現在はソマリアがエジプトと代理戦争していますがね」

Tさんとは昼食のわずか20分足らずに、いろいろな話を聞けた。
「最近TVに出るようになって分かったことに、確定コマーシャルという概念があります。これは、あらかじめコマーシャルの始まる時間が厳密に決まっていて、この場合は話を予定よりも長く話してもダメだし、そうかと言って早く終わってもダメ。
後者の場合は、つなぎの言葉もあらかじめ考えておかなければならない。昔映画解説の淀川長治さんが、TV番組の最後に『さよなら、さよなら・・・』と繰り返していた意味が最近分かりました。あれは時間を調節していたのですね」

「みのもんたが、NHKに自由にアドリブを入れさせろ、と文句を言っていましたよね」
「あれはヤラセらしいですけどね」
「さすがに内幕をよくご存知ですね。ありがとうございました」
 
(エリトリアのかかえる課題)

 エリトリアの若者二人がポートサイドまで乗り込み、エリトリアについてのワークショップを開いた。その中での説明では「現在エリトリアで一番優先順位の高い問題は健康で、ついで教育、性の差別(女性の進学率が低い)、サービス(輸送など)」で、雇用は5番目だった。
独裁政治の中で「言論の自由」はあるのかと言う質問に、一人は「民主主義の政治だから問題はない」という優等生の答え。他の一人からは「民主主義をめざしているが、道のりは遠い」と本音の答えがあったのはおもしろかった。お互いに発言をけん制している印象を持った。

(買い物)

朝7時すぎのマッサワの町。屋上のジャグジーで会ったKさんが、カフェーで現地の人と親しげに話している。
「銀細工のみやげ物屋さんを知りませんか」
「(現地語らしい言葉で訊いてくれて)8時にならないと開かないらしいですよ」と親切に教えてくれる。Kさん、ジャグジーで真っ黒に焼いた肌の色と精悍な風貌が、町の風景に完全に溶け込んでいる。

みやげ物に銀細工がよいときいたのだが、なかなかまけない。Tさんの話でも、中東ならちょっと店から出るそぶりを見せるだけで、まけるか或いは子供が追いかけてくる。ここはしっかりしている、と。
銀細工の店では、ピースボートの熟女が大勢で「昨日のオーナーは同じものを50ナクファと言っていたのに、今日は高くなったの?」と若い店員にくってかかるしまつ。おまけに「これだけしかお金がないからまけといて。お兄さんハンサムよ」と日本語で。ダメという店員に対して金を渡して強引に品物を持ち去ろうとする。
店員は「これ一つでも500ナクファするのですから、ダメですよ」と真剣に説明する。買い物ツアー族のいやな場面に遭遇した感じで、早々に立ち去る。顔見知りの京都の姉妹もあきれて店を出て行った。

8月23日:船内のジョーク

エリトリアでは電気・水・紙などが不足している。ツアーで夕食に立ち寄ったホテルの食堂で、普通はつけないの電灯を、特別我々のためにつけてくれたらしい。もっとも、100人近いお客が一度にくることは、ピースボート以外にはないのだろう。
水やコカコーラを配る従業員もとまどい気味。結局、ビールの在庫ゼロだったので不満が渦巻く。ときどきコカコーラの原液が底をつき、コーラも飲めないとか。飲み物はコーラしか置いていない。さすがはコカコーラこんな所にも進出している。

 紙が不足しているので「エリトリアのヤギは空腹になると、郵便局のポストの裏側に並んで、観光客がハガキを投函するのを待っている」そうだ。そういえばピースボートに何回も乗っている人が「エリトリアからの郵便は、日本に届かないことがときどきある」と言っていた。
その郵便局に行って記念切手を買う。切手にはエジプトとの戦いの歴史が描かれている。紙幣とともにめずらしいおみやげになった。

次回は1月末に掲載します。

エリトリア(マッサワ)

8月17日:健康講座③「すいみん」

 健康講座も3回目となり「すいみん」について取り上げた。参加者の中に船で寝つけないと悩みを訴えていた。
・ 夕食後1時間静かにしたあと軽い運動(散歩を30分くらい)すること。
・ 夕食後シャワーを浴びたら、1~2時間後に体が冷えてくるタイミングを逃さないで寝ること。(寝ている間の体温は下がっているらしい)
・ 寝る前に興奮したり、照明の明るいところは避けること。(TVで実験していた)
・ 規則正しく早起きして朝日(1500ルックス以上)を浴びること。
・ 寝る前の飲酒は良くないこと(血液の循環を良くする程度の少量は良い)
などを経験から話したら、早速試してみますと言っていた。

8月18日:「私達は知らない間にテレビにだまされているかも?」

 水先案内人の講話に「テレビと国際政治:私達は知らない間にテレビにだまされているかも?テレビの裏話を聞けますよ!」というのがあった。
確かにテレビだけでなく新聞・雑誌も含め、いわゆるマスコミの報道内容は、余程注意していないと偏った情報を正しいと信じてしまうリスクがある。

 若い人にも勧めているのは、一つの情報源だけに頼らないで、複数の新聞・テレビを見るようにすることだ。勿論簡単なことではないが、そうした心がけがないと一方的な報道でも、簡単に信じてしまう危険がある。例えば、たまには「サンデー・プロジェクト」と「報道2001」の両方を見る。
もっとも最近の若い人は、インターネットを新聞代わりにしていて新聞を読まない。私の長男も自宅で新聞をとっていないらしい。会社では読んでいるようだが。

8月21日~22日:エリトリア(マッサワ)

エリトリアは紅海のインド洋寄り、エチオピアのとなりに位置している。九州と北海道を合わせた広さに、400万人弱の人口が住んでいる。日本へは羊・胡椒・塩を輸出し、日本からは車を輸入している。

 エリトリアは30年もの長い闘争の末、1991年にエチオピアから独立した(注)。まだ15年しか経っていない、アフリカで一番新しい国である。アフリカには新しい国が次々と独立して、なんと現在53ヶ国もあるという。
寄港地マッサワ港は海岸なので昼間41度という猛暑になる。マッサワ港のツアーでは、空爆を受けた元大統領の別荘を見たが、傷跡が生々しかった。
(注)外務省のホームページでは、1991年エリトリア臨時政府樹立を宣言、1993年エチオピアより独立となっている。

マッサワ港の市場も見学した。日用品から地元でとれた野菜類まで、無造作に山積みされている。コーチンの島で見た店先よりは少しましだが、貧困そのもの。わらぶきの小屋が住まい兼商店だ。
誰かが「戦後の日本よね」と感想をもらした。「この国は戦後15年らしいけど、戦争に疲れてホットした顔色をしているわ」という感想もあった。

(平和とは諸国家、諸民族の「共生」)

小沢一郎が「平和とは何かといえば、諸国家、諸民族の『共生』であり、環境は自然との『共生』である」と述べている。更に「こういった発想は、キリスト教を基調とする欧米文明からも、イスラム圏からも、なかなか出てこない。彼らにとっての宗教的対立は恐らく不可避的なものでしょう。
その点日本人は、ものすごくいい加減で、融通無碍。八百万(やおよろず)の神がいて、死ねばみんな神様、仏様になる」という。(文芸春秋2006-12)

「平和とは諸国家、諸民族の『共生』である」という小沢一郎の言葉は、興味深いものがある。健康講座で「人生を楽しく生きる」には、自然・若者たちとの「共生」と言った参加者がいた。他の人々と共生すれば、争わなくて人生を楽しく生きることが出来るということ。
諸国家、諸民族の歴史・文化・価値観等々は、それぞれ違いがあり、その違いを認めることが平和への一歩ではないのだろうか。違うものを「一つ」でなければならない、これが「一番良い」と決めつけるところから対立が生まれる。

辻元清美衆議院議員は「若者たちは被爆した人や紛争地の人たちの話を聞くなど、衝撃的な出会いや体験をしたときにすごく変わる。教科書で教わるだけでなく、実体験を伴ったとき人間の背骨になる」と言っている。(朝日新聞2006-11-17)
若者に限らず誰でも、体験によってものごとの認識は変わるものだ。「かわいい子には旅をさせよ」「寮生活を経験すると親のありがたさが分かる」と言われる。日常生活では気がつかないことが、旅あるいは寮生活という別世界で「ハッと気がつく」場面が生じる。

ケニア(ツァボ国立公園)

8月14日~15日:ケニア
(ツァボ国立公園)

港からツァボ国立公園まで、片道4時間の7人乗りのミニバン旅行。このミニバンは、エアコンもないのでムッとする。窓を開ければ猛烈な砂ぼこり。マスクは欠かせない。タオルを首に巻いて砂ぼこり対策。そのタオルに時々水をかけて冷やす。

4時間の間に一回だけ貨車が通る場面を見た。10両たらずで貨物は空だった。その線路を歩く黒人の姿を見て、映画のシーンを思い出す。帰国後、ケニアの人は足が速いと聞いた。首都のナイロビでは、車の渋滞より人の渋滞の方が激しいそうだ。
トラック輸送がほとんどなのか、バスの前後は大型トラックがいっぱい。帰りにはそうした大型トラックの一台が、道端に頭を突っ込む事故を起こしていた。おかげで渋滞となる。

ケニアのサファリでは「象・ライオン・サイ・チーター・バッファロー」の5つを見られればラッキーと言われる。我々はサイを除いて4つを見られたから、ツアーリーダーの言によれば「参加者の皆さんの普段の行いが良かった」ということになる。シマウマはそのうち見飽きてくる位、あちこちで見ることが出来た。

宿泊したロッジは高台にあって、180度広がったサバンナを見下せる。何の障害物もないパノラマ写真を見るような気分で気持ちよい。夜は満天の星。長男に見せたい。
このロッジ備え付けの水やり場(注)の水を飲みにくる象やサルの家族を、10メートルくらいの近さで見ることができた。DVDに象が水を飲む「ピチャピチャ」という音が入っているはずだ。
(注)3メートルx10メートルくらいあるコンクリート製の箱の中に、人間が入り象に襲われないようにしてある。

夕食後、現地の自然保護団体の人の話を聞く機会があった。ライオンは「雄社会」で、雌ライオンはオスの気を引くために、生まれたての子供を殺すという。妊娠していれば堕胎する(どのように堕胎するかは、レンジャーの人も知らない)。
生まれた子供が新しいオスとの間に出来た子供か、前のオスの子供か分からないような場合には、新しいオスとの間に出来た子供として育てるという。(本当?)

象は1960年代には4万頭いたが、今は数千頭に減っているという。ここの象が赤茶けているのは、虫除けのために砂浴びする砂が赤いからで、赤い象ではない。また象は一日に40リットルもの水を飲み、鼻で一回に4リットルも飲めるという情報は新鮮だった。
誰かが「象は死ぬときに象の墓場で死ぬ、と聞いたが本当ですか」という質問に「私は見たことがない。象はだいたい50~60才で死ぬが、多くは歯が抜け落ちて食事が出来なくなり死ぬ。たまには、足を沼地にとられて抜けなくなり、そのまま死んでいることもある」という答えだった。

あるグループは、象を見たのをきっかけに、ミニバンのドライバーに日本の童謡「ぞうさん」を教えた。ローマ字で歌詞を教えて、その紙に7人がサインし「次回日本人がケニアに来たら、是非象さんの歌を歌ってあげて下さい」と頼んだそうだ。

ケニアの人は視力が良いので、我々は気がつかないのに、車を止めてライオンがいると教えてくれる。みんなが写真を撮り終わったら、その合図になぜか「ハレルーヤー」と叫べという。
運転手とのコミュニケーションはこの一言だけで、英語は通じない。ケニア上陸の前に数回スワヒリ語の講座があったが、「ジャンボ」(「こんにちわ」)しか使えなかった。

80才のTさんの話を聞いた。何事も経験だと思いケニアではキャンプに参加したという。ボーイスカウトをやっていたというだけあって、寒さとかキャンプの不便さには一言もふれず、明け方4時ごろに何かの動物の遠吠えを聞いたと。
若い人の参加者からは、動物の遠吠えを聞けなくて残念だったというから、若者は4時ごろ目が覚めていなかったのだろう。

キャンプの話からボーイスカウトの話になって、最近は残念ながらボーイスカウトに人気がないという。コンピューター・ゲームよりは、野外でチーム活動を通じて学ぶことが多いのに。
例えば、「漁師むすび」というようなロープの結び方を、きちっと知っている人は少ない。私も知らないのだが、「漁師むすび」というのは野外活動で欠かせない基礎技術だという。Tさんはシルクロードも走破したという有名人らしい。是非自主企画で講演をお願いしよう。

チームビルディングの研修で、いくつかの材料から船を作って川を渡るというのがあった。材料は、大きなドラム缶、長い角材数本、ロープなど。
このとき、ある参加者がみごとに「漁師むすび」を披露してくれた。彼の技術がなかったら、川の途中で結び目が解けて沈没していたかもしれない。彼はボーイスカウト出身だった。

8月12日:赤道を通過する、ジャッグリング・ショー

8月8日:船のプール

船のプールで初めて泳ぐ。5x4メートルくらいの小さなプールなので、泳ぐというよりは水に浮かぶという感じ。ちょっと冷たい海水だった。
ジャグジーは3人くらい入れる大きさで、こちらは若干温めてあった。常連になると、クルーに「もっと温度をあげて」と頼む人もいる。私の部屋にはバスタブがないので、風呂代わりで首までつかり、腰にバブルをあてて腰の痛みを和らげる。プールに入ったのでこの日はシャワーなしでも汗は流れた。
その後ときどき、満天の星を仰ぎながらジャグジーに入る。昼間の紫外線を避けることが出来るが、夜の海上は意外と風が強く、出るとすごく寒く感じる。

船のプールの水は航海中に海水をくみ上げるので、それぞれの地域の海水で泳いでいることになる。地域によって海水の色が微妙に違うそうだ。また、寄港地に停泊しているときは、海水をくみ上げられないからプールは空にして閉鎖してしまう。

ジャグジーで知り合ったKさんの説明によると「ドブロブニクの海水の色が透明度が高くきれいなのは、地中海の海底が石灰岩なのでヨードを含む海藻類が繁殖しにくく、その結果水の透明度が高い」のだという。
ラッコが好きな藻の多いサンフランシスコ沖の水は、地中海の水ほど透明ではないらしい。プランクトンが生息するかどうかで、透明度が影響を受けるという説明も聞いた。時間ができたら調べてみたいものだ。
 
8月12日:赤道を通過する、ジャッグリング・ショー
 コーチンとケニアの間に赤道を通過する。船内新聞に「船内ではいろいろな噂が流れる。赤道を通過するときに『白と赤のポールが見える』というのは、嘘」とあった。アンコールワットで顔なじみになったNさん(70才くらい)が「ある人に新聞に噂とある『白と赤のポール』の話をしたら、本気にしちゃって困ったの。どうしようかしら」と相談を持ちかけられた。「いいんじゃないの」と。

 8月11日の船内新聞に「12日00時から13日23時59分の間に赤道を通過するので、実際に通過する時刻を推理してあてて下さい」というトトカルチョがあった。一口500円で前回は400枚以上が売れて、当たった20才代の若者が、10数万円を手に入れたという。半分はレバノン救援基金にするという企画。

参加者は、6階に貼り出されている海図に物差しをあてて、にわか航海士となる。中には「うちの主人はエンジニアで船に詳しいから、ファックスで聞いてみようかしら」という熟年の女性もいる。
船のスピードは風力、潮の流れ、波の高さなどで左右されるので予測が難しい。一口参加。帰国したら息子たちと計算方法を検討しよう。正解は12日の01時51分だった。正解者一名で5万円の賞金。私の予測は01時27分で、向かい風に遭って速度が遅くなったようだ。

(ジャッグリング・ショー)
水先案内人(注)金昌幸(キムチャンヘンKIM CHANG HAENG、在日3世)のジャッグリングの公演は大好評だった。キムさんは現在20才で、国際パフォーマンスのコンテストで2000年、2004年と連続金メダルを取り、2008年には3連続金メダルを狙っている。
その為に今年11月から公演活動などは一切止めて、練習のみの毎日にするという。意気込みが半端ではない。
(注)これはピースボートだけのプログラムではないかも知れないが、それぞれの分野の専門家が航路のある区間だけ乗船して、訪問する国々の生活・歴史・文化を紹介したり、国際政治について話したり、マジシャンのように船内生活を盛り上げてくれたり、多彩なプログラムがある。

5夜連続公演の前の日に、1時間にわたりキムさんの20年間の生い立ちについての対談があった。朝鮮人のキムさんが、小学校時代に日本人にいじめられた話や、お母さんの厳しいしつけ、独特で且つ徹底したジャッグリングの練習方法などの話に一同感動した。
翌日の昼食ではこの話でもちきりだった。船内の若者たちと大違いだ。中には部屋に帰って泣いたという女性もいた。

印象に残った話の一つは、4才の時おばあちゃんに「世界で一番になれ」と言われ、好きなことを探し始めた、という話。いまどき自分のやりたいことが分からずに、大学に進学する若者がいる日本。この船に乗って自分探しをしている若者が、このショーを見ているかもしれない。
勉強以外でも世界に認められることがある、ということを実証しようと決心。あるとき、偶然アンソニー・ガットというジャッグリングの名人のビデオを見て以降、この道一筋。他の人と違うことをやろうと決心。徹底した筋肉トレーニングが、キムさん独特のパフォーマンスの基礎にあるようだ。

彼の偉いところは、世界の他のトップ・パフォーマーのDVDを紹介して「こんなすごい人もいるのですよね。感動しました」と、自分はまだまだ未熟だと言っていたこと。
翌朝「国際パフォーマンスのコンテストで連続金メダルを取ったのに、テングにならず、驕りを全然感じさせませんよね」「まだ20才ですよね」と感想を話し合った。


2007年1月 7日 (日)

インドの言語の多様性

(インドの言語の多様性)

インド人のガイドの英語はよく分からない。説明の中で一つだけ印象に残ったのは「インドは28の州からなっており、一つの国というよりは、ヨーロッパ連合(EU)に近い」という部分だった。
国際政治の舞台では一つの国でも、この国土の広さと異文化の人々を見ると、28ヶ国の連合国と説明されて納得した。

インドには、色々な文化を持った人々の集団があると共に、多様な言語がある。少なくとも30の異なる言語があり、200前後の方言が知られているという。
連邦政府の公的共通語としては、ヒンディー語と英語の二つであるが、それぞれの州は22の指定言語の中から、行政上の公用言語をそれぞれの州で採択できることになっているという。ルピーのお札には15の言語が記されている。

新日鉄に入社してまもなく、人事部でインド人を企業研修生として受け入れる世話係をしていた。6ヶ月の日本語研修を受けてから研修に入るのだが、そのインド人の日本語は日常生活に不自由しないくらいのレベルだった。
「なぜそんなに早く日本語を身につけられるのか」と聞いたところ「インドには方言が無数にある。隣の町になると言葉が違うので、小さいときから耳が音の違いに敏感になり、訓練されているのだろう」という説明を受け納得したものだ。

最近日本では英語を早い時期、しかも日本語もろくにわからない幼児に教えているが、早すぎるのも考えものだ。耳の感受性が高い子供のうちに外国語を学ぶ方が早く上達するといっても、日本語を覚えるのが先だと思う。
肝心の日本語を先にしっかり勉強してほしいものだ。そうしないと海外子女を増やしているようなものだ、教育投資の観点からも疑問が残る。

(コーチンの貧困状態)

 コーチンでは、ホテルの桟橋から50人乗りくらいのボートに乗り、水郷地帯(バックウォーター)をぬけて小さな島を訪問した。1時間くらいでベニスの船着場のような岸壁に着いた。途中、岸辺では水浴びをしているおじいさんや、若い女の人が洗濯をしている。
島を案内された。電気はかろうじて通っている。水は毎日、天候が悪いときは隔日に船で運ばれ、朝5:30から6:30の間だけ配給されるという。早起きしないと生きていけない。
この島の唯一の店には、昔懐かしい広口のビン数個にお菓子らしきものが入っていた。しなびたジャガイモが30個くらい、直径10センチくらいの、これもしなびたキャベツが1個半転がっていた。他にめぼしいものなし。島全体が非常に貧しい、自給自足の生活と思われる。

特別に家の中を見せてもらえた。突然のことに奥さんはとまどいの表情。このときTさんが、船で両替したばかりの100ルピー(XX円くらい)紙幣を、この奥さんの手にそっと握らせたそうだ。このことが後で議論をよぶことになる。
部屋は薄暗く、ざっと見た限りでは電球は見当たらなかった。ベッドは、日本では粗大ごみに出ているようなボロボロのもの。家具はなく、食卓もテーブルもない。
わずかに壁を棚のようにくりぬいて、飾りらしきものが置かれていた。いたたまれなくて、3分と見ていられなかった。誰かが「ここでの暮らしを経験したかったら、ウルルン滞在紀で出演させてもらえば」と言っていた。

このツアーに対して、参加者の中に二つの違った反応があった。一つは「日本は恵まれすぎていて毎日がお祭り・飽食。もっと物を大事にする気持ちが必要」もう一つは「大金を払ったのに、こんな貧困状態を見させられて」というもの。
人それぞれ価値観が違うから、と言えばそれまでだが。考えるほど奥の深い、一筋縄で解決できない、悩ましい問題であると考えさせられてしまった。
マザー・テレサが、1981年日本を訪問した際に残した「世界でこれだけ困っている人々がいるのに、そのことに無関心な日本は貧しい国です」という言葉は重い。

(インドの貧富の格差は半端ではない)

日本では、少し前まで「一億総中流社会」と言われていたが、最近になって格差の問題が脚光を浴びている。
インドでは、5%の人が裕福でそれ以外の人は貧しい、といわれるように、貧富の差がはげしい。今日本で議論されている格差とは比較にならない。

インドを旅行した多くの人は、子供からお金をせびられた記憶がある。あるいは、絵葉書などをしつこく売りにくる。場所によっては、道端でおわんを置いてひたすら頭を地面にこすりつけて物乞いする者。出来るだけ早くその場を立ち去りたい気持ちになる。
一方、マハラジャと言われる人たちは、日本の金持ちといわれる人の何倍も金持ちだろう。例えば、新日鉄に勤めていたころ、鉄鉱石会社の社長の自宅に招待された。頭つきの大きなトラの毛皮が、玄関にドーンと敷かれていたのが印象に残っている。シャンデリアはイギリス風のもの。大富豪である。

次回は1月中旬に掲載します。

インド(コーチン)

8月4日:かっぽれ

 江戸の伝統芸「かっぽれ」を、ピースボートの専門スタッフが教えてくれる企画があった。20人くらい集まり基本の基本から習う。テープレコーダーの歌に合わせて踊るのだが、みんな全くの素人。3分足らずの踊りを7~8回に分けて教えてくれた。踊るための道具は手ぬぐい一本だけ。1時間で汗をかく。
 この先生の教え方がすこぶる上手だ。わずかの動作を5~6回繰り返し、皆ができるようになるのを見極めて、次の動作に移る。決して急がない。
DVDに先生のお手本を録画して、自室のPCでDVDを見ながら動きを練習する。再生のスピードを遅くしても、なかなか追いていけない。体が言うことをきかない。
 
 インド(コーチン)の上陸説明会があった。
 「日中の気温は30度を超えます。帽子やサングラスなどの日除け、日焼け対策を行って下さい。また、水分の補給も忘れずに」アンコールワットの経験を生かして帽子の他、バンダナを首にまいて万全を期す。写真うつりなど気にしていられない。紫外線による体力消耗を避けなければ。

8月5日:星空観察会

 9階の屋上デッキで、南半球の星空と水がめ座流星群を見る、星空観察会があった。現在居る場所・時刻をインプットすると、その場所で見られる星座が画面に現われる、という優れもののパソコン・ソフトがある。
自主企画でSさんが、そのパソコン・ソフトを使って説明してくれた。何回も説明を受け、やっと南十字星が分かるようになった。もっと星座を勉強してくればより楽しめたのに残念。長男は星座が好きなので、絵葉書に「ピースボートに乗れば南十字星を見られるよ」と書く。

インド

8月6日~7日:コーチン

インドの寄港地コーチン市(ケーララ州に属する)は、インド南端西海岸に位置している。歴史的には、ユダヤ人が紀元前1世紀頃からインドにやってきて、香辛料貿易を一手に引き受けた。ポルトガル人が来るまでの長い間、この地域にはユダヤ人王国が築かれていたとのこと。
ユダヤ人がインドにそれほど昔から来ていたとは知らなかった。ユダヤ教のシナゴーグ(教会)も外観だけ見学した。ユダヤ人はシナゴーグを中心に、ユダヤの文化を受け継ぐ努力をしている、と聞いている。

ユダヤ人や中国人・韓国人の海外における結束の固さは、目を見張るものがある。日本人は日本人同士で仲間を作っているように見えるが、ゴルフ・買い物のような表面的なつながりのように思える。
例えば、30年前ニューヨークに学生として、ユダヤ人の家庭に土曜・日曜泊めてもらったことがある。土曜になると家族全員がシナゴーグに行く。教壇では、小学生がちくわの化け物のような巻物「トーラ」という、ヘブライ文字のユダヤ教経典を、指をなぞりながら読んでいた。
こうした努力により、ユダヤ教の伝統を次の世代に伝えているのだと思った。日本では、日本の伝統を守らなくてはと言うものの、ユダヤ人のような行動はあまり見られない。

このシナゴーグの近くには、聖フランシス教会がある。1524年この地で死んだ、ヴァスコ・ダ・ガマの墓石が床に埋められている。残念ながら日曜だったので中には入れなかった。
(コーチンの街)

ホテルを一歩出ると、ガイドの「コーチンは、インドの中で最もきれいな町と言われています」という説明に首をかしげたくなるような状態。「きれいな」という基準が違うのだ、と気づくのに時間はかからなかった。
他の人の旅行記に「コーチンは教育水準が高く、識字率はインド随一だそうです。デリーやマドラスで多く見られた物乞いの姿は、町なかでは見られませんでした」という一節があった。確かに物乞いはいないが、散乱しているゴミや、浜辺での生魚の店から発せられる臭いなど、衛生状態は良いとは思えない。

しかし、公園には滑り台やブランコのような子供の遊び道具があり、全体の生活水準は高いような印象を受けた。ライオンズ・クラブのメンバーの社長宅にホームステイした人の話を聞いたら、金持ちは非常に豊かな暮らしをしていると言っていた。貧富の差がはげしいということか。
下男と思われる若い人に、散歩させてもらっている犬がいた。早速シャッターをきる。犬・ネコは、今回の旅行で大切な被写体のひとつ。私がピースボートに乗れるようにと「自殺」した猫たちのためにも、世界の犬・ネコの写真をとって墓前に報告しなければ。

2006年12月29日 (金)

第二章 シンガポールからエリトリアまで-1

第二章 シンガポールからエリトリアまで

シンガポール

7月31日~8月1日:シンガポール

アンコールワットからプノンペン経由で、空路シンガポールに着いたのは7月31日16時頃。トパーズ号が出航する(8月1日02:00時)10時間くらい前だった。
アンコールワットの暑さで疲れていることもあり、街には出ず、ターミナルにある大きなショッピングセンターで買いもの。アンコールワットで知り合ったTさんと一緒にみやげ物を物色する。
みやげ物からテレビなど電化製品まで何でも売っている。しかも、入り口には日本語で「いらっしゃいませ。円も使えます」と張り紙があり、店員も日本語で話しかけてくる。日本からの旅行客が多い証拠だ。

Tさんはワゴンで店を出している「梅干屋」(日本語で店の名前が旗に書いてあった)で干したあんずを買った。部屋の仲間とのおやつに丁度よいと言っていた。
私は、今までの飛行機旅行ではかさばり荷物になるので買えなかった、ラン(オーキッド)の造花を2束買った。色とりどりの単品の造花を自分で選んで花束にした。長さ1メートル弱の大きな束になってしまった。船だから横浜まではよいが、横浜からどうやって持って帰ろう。本物のランを入れた額も妻のアンコールに答えて買う。

船内では果物が少ないので、地元の人が行くようなスーパーを探しりんごを2つ買う。やはり新鮮ではなかった。妻からのメール「船内は果物が出ないでしょうから、きっと寄港地で果物を仕入れているのでは?」を思い出し笑った。
シンガポールでは、シティバンクに勤めていたときの出張で、動物園のオランウータンと肩を抱き合った写真が思い出に残っている。おとなしいオランウータンで良い記念になったが、写真を見るたびにオランウータン独特の体臭もリアルに思い出される。鼻に記憶細胞があるのだろう。

 8月1日船内では、シンガポールで仕入れた南国の果物(マンゴー、パパイヤ、スターフルーツなど)をワゴンに並べたフルーツパーティがあった。350名限定の有料のイベント。ぶどうやいちごの食べ放題と同じで、食べ放題と言ってもそんなには食べられない。健康オタクとしては、中性脂肪の数値も気になる。

(マラッカ海峡)

 マラッカ海峡は海賊銀座と言われ、日本の船が海賊に乗っ取られたという記事が新聞によく載る。マラッカ海峡は、全長900キロメートル、巾70~250キロメートル、水深平均25メートル。岩礁や浅瀬が多いので、大型船の通れる巾が数キロメートルしかない場所がある。

船が岩礁や浅瀬を避けて、スピードを落とすときに海賊に狙われやすいそうだ。船には銃類は置けないので、消防用の水で応戦するという(注)。わがトパーズ号は、パナマ籍船だったことも幸いしたのか襲われなかった。
日本の国旗を掲げている船よりは襲われる確率が低いだろう、と勝手な解釈をする。それとも海賊が夏休みだったか。飛鳥IIの方が金持ちのお客が多いので、襲うのならそちらに願いたい。
(注)帰国して聞いた話では、飛鳥IIが一泊のツアーで伊東に寄航したという。そのときの写真を見せてもらったら、船首に海賊と応戦するための巨大な水鉄砲のような装置がついていた。

 今回の船旅でもう一つ心配なのは鳥インフルエンザ。これについては事前の説明会で、専門家が調べているので心配ないと言っていた。
船内の鶏料理は大丈夫か?寄港地のホテルで出る食事は?と心配し始めると何も食べられなくなる。
日本にいても食材の大半が輸入品の状態だから、鳥インフルエンザのリスクは日本にいてもあると思う。とにかく海賊や鳥インフルエンザなど、船旅に伴うリスクは心配すればきりがないので、気にしないこととした。

8月2日:自主企画「熟年同士で語り合う、人生を楽しく生きるコツ」

私は自主企画の始まる8月3日に申し込み「熟年同士で語り合う、人生を楽しく生きるコツ」を一時間主宰した。40人くらい集まり、初めての試みとしては成功か。
3人を1グループにして自分たちのコツを話し合ってもらい、それをグループごとに発表してもらうこととした。 

発表されたコツは、次のように多岐にわたった。
「健康」
「前向き・何事にも興味を持つ」
「相手の立場に立つ」
「社会への貢献」
「オンリーワン・自然流」
「自然・若者と共生」などさまざまな意見が出た。

「『こだわる』ことを大切にする」
「フーテンの寅さん流の生き方をする」もおもしろい視点だ。

ピースボートに乗るのも、人生を楽しむ方法の一つだ。その前提の一つは健康であること。そこで、次は健康について取り上げることにした。
若干自主企画に病みつきの気配もあったが、船内でじっとしているのもつまらないので、このアイデアの延長で健康講座シリーズを開くことになる。6回とおまけに文化祭で総集編までやってしまった。

2006年12月28日 (木)

カンボジア人とその生活

(カンボジア人とその生活)

カンボジア人も日本人と同じように温かくて親切だ。ホテルで同室だったMさんは、その理由を「日本人もカンボジア人も多神教(それぞれ仏教・ヒンドゥ教)を信仰しているからだ」
「ユダヤ教のように一神教では、自分と相容れない者に容赦がない。多神教は他を許すこころがある」と説明していた。そうかも知れない。おもしろい見方だ。勉強する価値があるかも知れない。

ただ、日本も多神教だが、自分のグループメンバーでない「よそ者」には排他的なところがある。日本は基本的には、農耕を生活の基盤におく「村社会」である。水田に引く水を共同で使ったり、村全員で助け合いながら稲刈りをするなど「運命共同体」だから「集団主義」の要素が強い。
メンバーと違った行動をとる者には、調和を乱すものとして「村八分」という制裁を課す。また、仲間をかばいあう結果、組織としての自浄力に欠ける面がある。雪印事件や三菱自動車事件などは「ムラ社会」が原因と言われている。

ビジネスの世界では、日本の「集団主義」と外国(例えば、アメリカ)の「個人主義」とどちらが良いか、という議論をする。そして結論としては、両方の要素を調和させる(長所と短所を取り入れる―ハイブリッド―)のが理想だというのが一般的である。
京セラの稲盛会長は、安易なグローバル化に「和魂洋才」と言って警鐘を鳴らしている。外国の良さを取り入れる際に、日本の良さも残すべきだという。まったく同感。

こうした日本の良さを残すことについては、企業の世界ではかなり意識されているように思われる。しかし、一般には外国コンプレックスからか、何でも外国のものが良いと決めてかかり、日本の良さを忘れてしまう傾向がある。
日本の伝統を維持することは、時間とエネルギーがいる。特に若い人に日本の伝統が伝わり難い。地方の神楽などの舞い手の後継者がいないと言われている。お寺を中心にした祭りの維持も難しい。やっと町内会のお祭りが3年に一回くらいあるぐらい。檀家という言葉にいたっては死語だ。

ガイドのサムナンさんによると、都会での生活費は月50ドル、田舎では10ドルと大きな差があるという。
ホテルなどの新築ラッシュで、ビル建設の手伝いは一日2ドルとか。ということは、観光地で子供が売っている絵葉書10枚のセット2ドルは、高収入ということになる。

カンボジアでは、バイクが通勤など日常欠かせないもののようだ。我々のバスの間をぬって猛スピード追い抜いていく。道端には2リットルのペットボトルにガソリンを入れて売っている。
アンコールワットで観光に使ったバスは、ふた昔前の「木炭バス」を思い出す古い車だった。ハングル文字が車体に残っていたから韓国製と分かった。徒歩で観光している間にファンベルトを取り替えていた。途中でエンコしなくてほっとすえる。

フランス領だったなごりか、ホテルでのパンがおいしかった。比較的高いツアーなので、ホテルも高級ホテル、食事の内容も良かった。他のパッケージツアーと値段の比較をしても始まらない。
ここまで来てアンコールワットに寄らないのはもったいないし、最後のチャンスと思い参加した。今回の3泊の旅でMさん(元金融マン66才)と知り合い話がはずんだし、顔なじみもたくさんできた。
ピースボートでの船旅を考えている方にアドバイスするとすれば、オプショナルツアーは旅行の早い段階で取ったほうが良い。そうすると、相部屋になった人とじっくり話が出来て良い友達になれる。その後の旅行で話し相手になるし、輪が広がる。

上陸説明会で「カンボジアは日本と違っていろいろ不便ですので、あらかじめ理解しておいて下さい」と説明していた。
しかし、アンコールワットの中で、女性用トイレから「あら、鍵がないわ。電気がつかないし、トイレットペーパーもないわ!」という声が聞こえてきた。

カンボジアでは紙は貴重品なので、現地の人は、トイレットペーパーを使う習慣がないそうだ。だから水洗トイレは、紙を流す前提で設計されていない。水洗トイレで紙を使うとつまってしまうことになる。
それを防ぐために、使用済みの紙を入れる箱があるとか。これは台湾と全く同じ。もっともトイレには行ったが、大の方でないので実際に箱が置いてあるかは確認できなかった。
もちろんホテルには箱はなかった。ホテルの水洗トイレの設計は、一般のそれと違うのかも知れない。「ここは日本ではありません」と自分を納得させる。

電気も高い(輸入していると聞いた)ので節電が徹底している。我々の泊まったホテルでも観光して帰ってみると、部屋の電気が全部消えていた。すぐにレセプションに電話する。
キーカードを差し込むと電気がつく仕掛になっていた。

(カンボジアの入出国審査はきびしい)

前述のMさんは、用意周到に水筒を持ち歩いていた。入出国のX線検査の所で、女性係官がその水筒の中身を飲めというしぐさをしている。まわりの皆も唖然とした。
荷物検査が二回あるし、入出国審査のあと、ほんの10メートル歩いたゲート前で、またパスポートをまた見せろという。
30年前に、モザンビーク(南アの北隣)を仕事で訪問したことがある。その時には、空港で少年兵が銃を構えていたが、独立した直後でもあり違和感はなかった。今回は異常にきびしい。安全は大事だがやり過ぎも迷惑だ。

その後インド洋上で、イギリスでペットボトルによるテロ未遂事件があった、というニュースを聞いた。「安全は大事だがやり過ぎも迷惑だ」などと言っているのは良くないのかも知れない、と反省。
カンボジアは、正しいことをしているのかも知れない。このあとトルコでもテロ事件があり、日本の新聞に大きく取り上げられたと船内の掲示板で見た。この時はさすがにすぐ留守宅に電話した。もっともテロのあったのはテヘランで、我々の寄港地イスタンブールとは相当離れているが、留守家族は心配する。

(カンボジア国内便は、ミストのエステサービス付)

シェムリアップ(アンコールワットのある都市)からプノンペン(首都)への国内便だから、プロペラ機は納得(PMT航空、AN-24型)。
しかし、離陸準備中エアコンを入れてくれたのはよいが、いきなり冷風の吹き出し口から霧がどっと出てきた。みんなびっくり。耳鼻科でのどに蒸気をあてる、あのような霧だ。
添乗員があわてて、天井から垂れる水滴をトイレットペーパーで拭くしまつ。これを称して「ミストのエステサービス付」PMT航空はロシア籍と説明を受けたが、事実かどうか確かめるすべがない。

さらに「窓からタイヤが見えたけど、ツルツルに磨り減っていて中の白いものが見えた」という話を、飛行機から降りてから聞いてゾットする。
機内では、マラリアを媒介すると言われる「蚊」のおまけも付いていた。まさか機内に蚊がいるとは予想していなかったので、半そで姿の私は、あわてて虫除けの薬を塗る。
もちろんバスの中にも、レストランにも蚊がいるので、ホテル以外では気が抜けなかった。だから日中35度と暑いのに、どこに行くのも長袖、ジーパン姿だった。飛行機は大丈夫だろうと思っていたのに。

 カンボジアに出発する前の説明会で、カンボジアはマラリアの汚染地域になっているから予防薬を事前に飲むよう勧められる。7月25日から9月5日まで週一回合計7錠飲む。2,000円は安心料。
ところで、Mさんの父上は、戦時中支邦でマラリアに罹ったとのこと。しかし、そのお陰で赤紙が来ても、身体検査で不合格となり生き延びたとか。何が幸いするか分からない。マラリアにかかると体内で卵から幼虫、成虫と成長する過程で高熱が出ると教えてもらった。

日本語ガイドのサムナンさん

(日本語ガイドのサムナンさん)

現地ガイドのサムナンさんは、カンボジア難民の一人で、両親はポルポトに殺されたという。12年前に苦労してガイドの資格を取った。当時日本語ガイドは4人しかいなかったが、今は300人もいて仕事が回ってこない。今月はこのピースボートの仕事だけなので、感謝していますと。37才で8才の女の子がいて「目に入れても痛くない」という。
カンボジアは観光でもっている国である。最近の観光客には韓国人が多いのだそうだ。

日本語が分かりやすく、とても上手で、いつもニコニコしていて本当に感じが良い。みんなの人気者だった。
壁画の説明では、日本との比較(例えば、アンコールワットの時代は日本では鎌倉時代で・・・と説明)するなど、勉強ぶりがうかがえる。
知っていることを一生懸命に説明し、日本人添乗員に「時間がないので急いで」とせかされる。それでも10歩くらい行くとまた説明する。

車内で一生懸命にクメール語を教えてくれた。「こんにちは」は「スォウスディ」。これは「ソースではない」と覚えるのが良いと日本人ガイド。「ありがとう」は「オークン」(「王君」)。
みんな早速ホテルの従業員に試してみると、結構通じる。いや、通じているふりをしてくれているだけかも知れない。大事な収入源のお客様だから。

カンボジア人は握手の習慣がなく、手を顔の前で合わせて挨拶する。この手の位置の高さが、挨拶する相手によって違うのだそうだ。
友達の場合は胸の高さに、目上の人には口あたりの高さに、神様になると頭の上で手をあわせるのだそうだ。なるほどと納得した。

(プノンペン空港で)

プノンペン空港で歩きながら、日本人ガイドが、カンボジアの面積は北海道の97%と説明してくれた。97%とは細かい。これを聞いた直後、(これを聞いていなかった)他の人に「カンボジアの面積は北海道の96%だそうです」と言ったら納得していた。
両方の会話を聞いていた人が、まゆに唾をつけるしぐさをして「ガイドは北海道の97%と言っていませんでしたか?」と。それ以降私は「ほら吹きのタダさん」となる。

実はこれには訳がある。大脳生理学によると「人に聞いた情報を覚えるには、聞いた直後に他の人に話すと良い」と言われている。
人間の脳には、短期記憶装置と長期記憶装置がある。情報はいったん短期記憶装置に記憶されるが、「18秒」経過すると、その情報を長期記憶装置に移さないと消えてしまう。つまり、ある情報を記憶したつもりでも、18秒間何もしないと消えてしまうのだそうだ。

従って、長く覚えておきたい情報は、覚えた直後18秒の間に、長期記憶装置に移す作業しなければならない。その作業には「繰り返し声をだしてその情報を言う(18秒が中断しないで繰り返されるから、口で唱えているあいだは記憶されている)」、「書く」、「映像や思い出しやすい情報に結び付ける」などがある。

自分の住所を覚えているのは「繰り返し」使っているから。受験勉強のとき英単語を「書いて」覚えた。記憶術に「映像にむすびつける」というのがある。
こうした理由から、人の話をすぐ他の人に話すと、その話は長い間覚えていられるのだ。だから、今でも「カンボジアの面積は北海道の97%」という情報を覚えている。

第一章 船出からアンコールワットまで-2:アンコールワット

7月27日:ベトナム(ダナン)

台風の進路を避けて遠回りしたらしく、行程が一日遅れた。このため私が申し込んだ、ダナンでのツアーがキャンセルとなる。ダナンの街の風景を見たのは、カンボジアに向う(注)ために飛行場へ移動するバスから見た20分だけだった。
(注)行程の途中(ダナン)で船を降りて別のルートで観光し、次の寄港地(シンガポール)で合流するツアーがいくつか組み込まれている。ピースボートではこれを「オーバーランド・ツアー」と称している。

終戦直後の日本がこんな感じだったのか、と想像する。ゆっくり見る時間がなくて残念。それでもベトナム戦争の生々しいキズ跡が感じられ、平和のありがたさを思い知る一瞬であった。聞くところによると、ダナンは激戦地区だったという(勉強不足を反省)。

ベトナムやカンボジアを訪問すると、戦争は二度としてはいけないとつくづく思う。若い時にこうして世界一周のような旅行をすることは、大変有意義だ。「かわいい子供には旅をさせよ」の諺どおりだ。平和ボケの日本で、せつな的なTV番組ばかりをみて過ごしていると「井の中の蛙」になってしまう。
最初の訪問国だけに、日本との落差が大きく感じられたのかも知れない。街の雰囲気は、ごみごみしていてバンコックに似ているが、バンコックでは人がもっと多く活気があったように思う。

(青い鳥を探す)

船内新聞で「ピースボート旅行に参加した目的はなんですか?」という100人に聞いたアンケートがあった。アンケートの結果は、出会い40票、交流12票、新しい自分に変わりたい9票など。青い鳥を探す寓話のように、誰しもピースボートの旅で何かを期待している。

私の期待していることは、遺跡を自分の足で歩き、蒸し暑い熱帯雨林の自然を肌で感じることだ。初対面の900人との出会い。船での生活、自主企画のチャレンジ、自分の行き方を振り返り、これからの人生をどのように過ごすかを考えるなどなど。しかし、出発前の欲張りな計画は、最初の一週間の船酔いで徐々にしぼんでいく。
目標は高い方がよいというから、多少目標どおり行かなくても悲観することはない、と割り切る。100日間無事だけでも立派、と考えると心の余裕ができた。毎日を楽しむことの大切さを実感する。

本を書くといったら、次男から「所詮は自己満足」ときびしい指摘があった。自己満足でもよい、目標があるから毎日パソコンに向かって少しずつ書いているのは楽しい。この話を参加者にしたら「旅行はしょせん自己満足ですよ」と。
人生を振り返り「あの時はあーすれば良かったのに」と後悔したくない、と思い続けている。失敗は薬というが、失敗を恐れて何も行動しないよりはチャレンジする。もっとも、事前に計画に十分時間とエネルギーをかけて、二度と同じ失敗はしないようには心がけた。

今回の旅行は、そうした自分なりの今迄の取り組み方・生き方の、総仕上げのような感じがする。つぎつぎとツアー説明会が開かれ、いろいろな注意事項を説明される。そのとおり実行しないと大変なことになる。
例えば「帰船時刻に遅れて港に取り残されたケース」も過去の航海にはあるという。そうはなりたくない。

転職する時も、もしかしたら転職に失敗して生活に困るような事態が生じないか、と自問した。一方「あの時転職していれば・・・」と後悔したくなかった。
「転職していない人生」をビデオで再生することは出来ない。従って、二つのケースを厳密には比較は出来ない。
 
「転職して良かったですか?」という質問には「転職したから経験できたことが一杯あるので、良かった。比較は出来ない」と答えている。当時高校生だった次男の「働くのはお父さんだから、お父さんが決めればいいんじゃない」の言葉で決まりだった。

7月28日~31日:アンコールワット

(「アルカイダ」一族の手配写真)

アンコールワット(注)の遺跡群の観光のためには、特別なパス(通行証)が必要。テレビで見た南米の国境検問所のような所で、パスに貼る顔写真を取られる。なんと三日間で40USドルもする。
しかも、検問所で見学の都度ものものしい制服の係官がバスに乗り込んで、各自がパスを持っているかどうか確認する。忘れたら一日さらに20USドルを払わないと入れない。
ただし、パスに貼った顔写真がおみやげに残る。私の写真は、茶色のバンダナを鉢巻にしてサングラス姿。まるでアルカイダ一族の手配写真だ。

このツアーの私の評価は、満足度90点というところか。参加者の一人に聞いてみたら、意外と「期待していたほどではなかった」という。
マハーバーラタ物語の決戦の図を彫り込んだアンコールワットの回廊や、バイヨンの四面仏には写真とは違った感動がある。とは言っても、実はシャッターを押すのが忙しくて、じっくり見てはいないが。

マイナス10点は予想以上の蒸し暑さだ。気温36度、湿度70%の炎天下で、きつい観光だった。ペットボトルの水をチビチビ飲みながら、帽子はもちろんバンタナを首と頭に巻いて日よけ対策。
その上階段が多く、短い見学時間の中で欲張って見ようとするから早足になる。迷子になると船に帰れない恐怖心もある。ついに三日目の午後はダウンしてホテルで休憩。地球一周は未だ先が長いので、無理をしないこととした。

三日目になると、アンコールワットより規模も小さく、保存状態も良くないロルオス遺跡群に案内される。角材でかろうじて倒壊を防いでいる状態の部分もある。途中ユネスコや、フランス、日本の協力による修復作業も目の当たりに見ることが出来た。
佐渡島のお寺では、京都などの観光地に比べて資金が少ないので、朽ちるにまかせていたのを思い出した。世界遺産といっても所詮資金が十分でないと、このように広大に散在する遺跡の保存は容易ではない。そう考えると三日間で40USドルのパスは高くないか。

二人の現地ガイドが異口同音に「日本の援助で学校・病院の施設が良くなり感謝している」と言っていた。言い方が本当に心から感謝しているような口ぶりだったのが印象に残った。上智大が遺跡の修復をやっていると説明していた。

7月25日:時差発生を忘れる

7月25日:ベトナム上陸説明会

 原則として、寄港地に到着する2日前に上陸説明会がある。主として、パスポート審査などの入国手続き関係、気候、両替、現地の治安状況の説明を、参加者全員にする。
 ダナンでは「治安は良いですが、道路の横断にはご注意下さい」と説明されていた。ダナンではピースボートが上陸すると、交通事故が急に増えるという。理由は、日本人が道路を横断する際に「走る」からだ。ベトナムの人は走らないので、運転手は走る人を見るとびっくりして運転を誤るのだとか。

(時差)
 25日フィリピンの北を通過。午前0時(日本時間)に午後11時(現地時間=船上の時間)として、日本との時差を1時間調整する。今まで日本時間(=現地時間=船上の時間)で07:00に朝食をとっていた。これからは、船上の時間で07:00に朝食をとるということは、日本時間の体(体内時計)は08:00と認識することになる。1時間余計に寝た計算になる。
地球を西に回ると、少しずつ余計に寝るから体は楽だ。逆に東回りの旅行がきついのは、経度で15度東へ移動するたびに1時間ずつ寝不足になる理由だと実感する。
東回りの旅行は、体内時計に逆らって生活するから体に悪いといわれる。元勤めていた会社の役員が、一ヶ月間に南アフリカ、ヨーロッパ、オーストラリアと、立て続けに出張して体をこわした。 

シンガポールを過ぎてすぐに時差が変わるのだが、気がつかず調整しなかった。朝6時の太極拳に行ったら誰もいない。ハッと思って通りすがりの(外人の)クルーに時間を聞いたら「5時だよ」と。8月2、3、4日と立て続けに時差調整を行う。
早速時差を館内放送してもらえないか、とレセプションに申し入れたら「時差調整をするのは真夜中の24時なので、寝ている人を起こすことになり、24時に放送出来ない。そうかと言って24時以前に放送すると、放送を聞いた時点ですぐに調整する人が出てきて混乱する」との説明。意外と難しいものだ。という訳で、夕食事のテーブルの上に、時差調整をお知らせするカードが置かれている。船内の新聞にもお知らせがあった。私は二つとも見落としていた。
 
もっとも船の旅は、こうして時差を少しずつ解消するので、普通の飛行機の旅のように現地についた日は時差ボケで行動できない、という欠点がない。いわば効率の良い旅ができるという訳。地球を一周すれば日付変更線をはさんで一気に調整することになる。

船内新聞には「本日時差発生・・・24時なりましたら、お手元の時計を一時間お戻し下さい」というお知らせが載る。
ところが、例えば9月12日の船内新聞には「本日時差発生・・・24時なりましたら、お手元の時計を一時間お進め下さい」とある。カナリア諸島はスペインの一部だから、位置的にはスペインより時差にして一時間西よりにあるが、本国スペインの生活時間に合わせるための調整だ。これを逆時差という。
100日間で逆時差が三回発生した。一回目はシンガポールで、二回目はカナリア諸島で、三回目はグアテマラ通過後。船の旅には、時差調整用に二つの時計を持参するのがよい。

7月24日:台風5号の影響

7月24日:台風5号の影響

12時台湾の東側を通過。台風5号を追うように南下。波高く、運行状況を知らせる掲示板に2.40~3.60メートルと表示されていた(25日は6メートル)。揺れがひどく廊下を右に左に、斜めに歩く。酒に酔って深夜、千鳥足で帰宅した昔を思い出す。

のちに船の揺れに慣れてくると、体が自然に揺れにそって左右に揺れるようになる。ところが、寄港地に上陸すると、今度は地面が動いていないのに、体は左右に揺れている。
他の人に同じ経験談を聞いたときは「まさか?そんなことは起こらないだろう」と思っていたが、実際に自分の身に起きてみて実感した。(帰国して一週間くらいは、体がゆらゆらしていた。)

エレベーターは止まっているので、階段を手摺りにつかまりながらゆっくりと上り下りする。ちなみにエレベーターは日本で問題になったシンドラー社製ではなく、OTISと表示されている。船が50歳だそうだから、エレベーターも時代物。
エレベーター付近やデッキの手摺りのあちらこちらに、気分が悪いときに使う「船酔い用の袋(Sickness Bag)」が置いてある。あまり揺れがひどいと、エレベーターは停止する。

夜中に目がさめて、揺れがひどいのでそのまま朝を迎える。睡眠不足気味。でも無理してデッキを歩きまわる。デッキのソファーは、寝不足や気分の悪い人で満席。
「昼間寝ると寝つけなくて、悪循環になりますよ!」と助言してあげたいが、余計なお世話かも知れない。

(トパーズ号について)

私の乗った船は、トパーズ号という船で、総トン数31,500トン、全長195メートル、全幅27メートル、高さ30メートル、喫水9メートル、航海速力最大21ノット、乗客数1,487名。大きさは飛鳥IIと遜色はない。
トパーズ号は1956年イギリスで就航。50年も古いとは知らなかった。2~3年後には引退する予定とか。

そうと知っていれば乗船を躊躇したかも知れない。人間知らない方が良いこともある。英文では「TOPAZ TSS(Turbine Steam Ship)」と書く。
ディーゼルの船が常識の今日、世界中で「蒸気船(Steam)」が現役で動いているのは、この号だけなのだ。めったに経験できないことなのだと前向きに考えることにした。

ピースボートがトパーズ号を使い始めたのは3年前。一時期は「エンプレス・オブ・ブリテン(英国の皇后)」と呼ばれていてのだから、50年前は豪華船だったのだろう。エレベーター始め、建造当時から使用続けていると思われる設備・表示があちこちに見られる。
例えば、「診療所」は「Clinic」ではなく「Infirmary(付属診療所)」となっている。トパーズ号は英国で建造されたから、Infirmaryは英国式表現なのかも知れない。機会があったら英国英語を母国語としている人に聞いて見よう。

船に詳しい建築家のKさん曰く「最近建造された客船では、客室に接している廊下はまっすぐで、すっきりした構造になっていますよ。トパーズ号は、船室を継ぎ足し継ぎ足し改造したから、客室の配置が迷路状態になっているのですよ」

迷路状態という意味は、迷路パズルの図を思い起こしてもらえば分かりやすい。船の中央の通路から狭い路地に入り、更に右左に曲がらないと、たどり着けない部屋もある。
通路で案内しているピースボートのスタッフに聞いたら、初日だけで迷子は10人を下らないという。私も6日目に迷っている3人組のおばあさんに、その直後に若い人にも食堂への道を案内した。

トパーズ号の航海速力最大21ノットは遅いと思ったが、飛鳥IIでも23ノット、おがさわら丸で22.5ノットだからそれ程遅いことはない。それに通常航行している速度は時速17ノット(約時速30キロメートル)前後だ。のんびりした船旅なので、速ければよいということでもない。
昔は鈍行列車でゆっくり車窓の風景の移り変わりを楽しんでいたが、今は新幹線で車窓の景色を楽しむこともなくなった。仕事でも新幹線が出来たので、東京―大阪間は日帰り出張になった。それまでは出張先で一晩泊り、一杯飲んでコミュニケーションをはかれたが、それがなくなったのがさびしい。速いばかりが良いとは限らない

2006年12月27日 (水)

第一章 船出からアンコールワットまで-1

2006年7月中旬

出発の一週間前に78才の人生の大先輩から電話があり
「昨日(出発地まで飛行機で行く)2週間の地中海クルーズから帰ってばかりです。乗る船は大きいのですか?」
「3万トンです」
「10万トンくらいでないと外洋でゆれますよ。部屋は?」
「頑張って一人部屋にしました」
「部屋にはベランダがついていますか?」
「(えッ!)・・・」(我がトパーズ号は、プリンセス号のような豪華船ではないのです。)
この話はその後船内の食堂で、豪華船の話がでる度に何回か話すことになった。

------------------------------------------------------------------
第一章 船出からアンコールワットまで

船出

7月21日:横浜から船出

9時受付開始というのに、8時過ぎにはもう並んでいる。自分も気の速い一人。入り口で船内IDカード用に写真を撮られる。ホテルのレセプションのようなカウンターで書類にサインする。ボーイのような人が荷物をもって船室(キャビン)に案内してくれて鍵を渡された。まるで海の上のホテルだ。
小学校のクラスメート3人が(固辞したが)横浜で見送ってくれたことを後でメールで知った。うれしい仲間だ。絵葉書を送ろう。雨だったので申し訳なかった
ボーと出航の汽笛が鳴ったのは12時ちょうどだった。期待していたドラの音はなかった。ランドマークタワーも半分は雲の上。あっという間に外洋にでる。

船に乗って初めての昼食。食堂のテーブル担当の人達10人ほどが、入り口で一列になって挨拶してくれた。我々のテーブル担当は、インドネシア人だった。
「ナマステ」と挨拶するインド人もいる。給仕に限らず船のスタッフに日本人はあまり見当たらない。20ヶ国、330名のスタッフが乗っているピースボートは、さながら「海の上の国連」。

船長はギリシャ人で、ディオニシス・クッカリス(Dionyssios Koutsoukalis)という。食堂のテーブル担当(ウェイター・ウェイトレス)はじめ、部屋の掃除係り、オフィサー、ほとんどが外人だ。アジア、ヨーロッパなど世界各国から来ている。フィリピン人(注)が多いようだ(あとから日本人は60人くらいと聞いた)。
(注)日本の外航船の外国人船員の70%が、フィリピン人だそうだ(2006・11・20朝日新聞)

ベトナム~アンコールワット

7月23日:避難訓練、ウェルカムパーティ

(避難訓練)

出航3日目に非常時の避難訓練があった。ライフジャケットを着用するのは、生まれて初めての体験なので、普段は見ないドア裏側の説明書きを読んでみる。ちょっと緊張する。

熟年のご婦人から「もっと緊張感をもって訓練して欲しい」
「点呼の声が小さい」などと注文が出る。
「沈没するときはどのくらいの時間がかかるのですか?」には
「ケースバイケースです」と説明に窮していた。

後でこの話を船に詳しいSさんに話したら「沈没するまでにどのくらいの時間がかかるのを知りたかったら、船長さん(船長は沈むまで船に残るから)の後ろについて時計を見ていれば分かりますよ」という答えだった。
ライフジャケットを使わないことを祈るのみ。

(ウェルカムパーティ)

フォーマル・ディナーがあるので、背広を一着だけは持参した。女性は衣装が大変のようだ。和服で決めている人も多い。
背広で初めての人ばかりとの夕食は肩がこる。飛鳥などの豪華船は、毎日がフォーマル・ディナーなのだろう。ピースボートでは航海中、5回くらいフォーマル・ディナーがあるらしい。中には堅苦しいのが苦手だといって、カジュアルに食べられる別の食堂ですませる人もいた。

(船酔いは一週間で治る、しかし・・・)

大学時代の仲間に、船酔いするから船旅はお断りと言われた。船酔いはトラウマになり易い。二度と経験したくない気持ちはよく分かる。
トパーズ号は、横揺れ防止装置つきの大型船だが、外洋に出るとやはり揺れる。今回は台風5号の影響で、乗船3日目から揺れだした。インド洋での揺れが特に激しいらしい。

船酔いは一週間で治ると聞いたが、台湾沖での台風の影響もあってか、人によっては長く苦しんでいた。中には3日間おかゆだけで「お腹と背中の皮がひっつきそうだった」という人もいる。
体調不良と電話すれば、部屋までおかゆを届けてくれる。ピースボートに三回乗っている人の証言では「船酔いの人は見るのも気の毒でした。毎日真っ青な顔をしていましたよ」と。

だから、船酔いする人に船旅は勧められない。折角楽しく過ごす旅が、船酔いで苦しみ台無しになってしまう。

いくらかかるのですか? 

船酔いは大丈夫ですか? 
船酔いがきつい人にはお勧めできません。本人が苦しむだけですから。少しくらいなら大丈夫という人なら、お勧めです。最初の一週間くらいで慣れると思います。

いくらかかるのですか? 
私の場合、旅行代を除いて、100日間の食事付きの一人部屋で200万円でした。4人部屋なら138万円(約6ヶ月前の早割り)からあります。一番高いのは、二人部屋で一人当たり350万円くらいです。

一番良かったことは?何が成果ですか? 
自分の好きなことを存分に出来たこと。私の場合「自分の好きなことはこれだ」ということを確認出来ました。それを楽しむことを覚えました。
また、自分の生き方を振り返り、これからもこれで良いのだと自信が持てた、ということも大きな収穫です。 
「『同好の士』が集まり新たな人脈が広がる。これが『好縁社会』です」と堺屋太一が書いています。(文芸春秋2006.11「団塊の世代:幸福への一千日計画」) 
ピースボートには旅行好きと、新たな出会いを求める「同好の士」が集まっていました。100日間寝食を一緒にした仲間ですから、家族です。ですから帰国してもずっと仲間でいられます。

もう一度行きたいところは? 
クロアチアのドブロブニクです。アドリア海と空の紺碧色。それと全ての家がレンガ色で統一されていて、それとの調和がすばらしかったです。旧市街は世界遺産にもなっていて、歴史の匂いが色濃く残っています。

食事は選べるのですか? 
席につくのとビュッフェ・スタイルと二つから選べます。数回フォーマル・ディナーがあって、ちょっと豪華な気分を味わう場面もあります。
年配者が増えたので、和食が中心になっているようです。イタリア料理とかベトナム料理など寄港地の食事も出ます。

ピースボートの特徴は? 
若い人と一緒に旅行出来ることだと思います。乗船客の年齢別比率は、30歳代未満が40%、30~50歳が20%、50歳以上が40%です。
自主企画といって、船内でいろいろな企画を、乗船客自らが立てて実行できます。これは、中高年の方にとって、自己実現の場と考えてよろしいでしょう。自分の知識・経験を生かして、好縁仲間を増やす良い機会です。

ピースボートに乗って、変わったと思いますか? 
私自分では変わったと思いますが、他の人にはすぐには分からないようです。 

団塊の世代に贈るリフレッシュ休暇100日航海日誌

65歳のインナー・トリップ100日航海日誌
2007年問題を前に、団塊の世代に贈るリフレッシュ休暇

今回の世界一周の旅行は、自分を見つめ直す良い機会となった。時間がたっぷりあるので、自分の本当に好きなことは何かを確認できた。
これからどう生きるか?人生の目的・目標は?社会とのつながりは?これからの人生をどのようにして楽しむのか?などを自問自答する旅でもあった。
この意味で「インナー・トリップ」という表現がふさわしい旅行だった。参加したのは、ピースボートが企画・運営する100日の世界一周の船旅(注)である。
(注)ピースボートのホームページはhttp://www.peaceboat.org/index_j.html。

私が飽きずに続けられることは、新しいことに挑戦すること、自分の知らない世界に触れ、そこから新しいことを学ぶこと、自分の知識・経験を生かすことなどだ、ということに気がついた。
例えば、船内の自主企画で健康講座のシリーズを主宰した結果、新しい出会いが増えたし、自分の知らないことを勉強できた。落ち込んだ時も、自主企画の準備や司会をやることで元気が出た。

趣味を続けながら、社会とのつながりとのバランスをとることが、これからの挑戦だと考えるようになった。人生について似たような考えを持った人に出会え、好縁仲間を広げることも出来た。
これからの生活を楽しみながら過ごせる自信がついたのは、最大の収穫だったと思う

最近のトラックバック

2009年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31