(遺跡の旅)10月5日~9日
(遺跡の旅)10月5日~9日
エジプト・ギリシャ・イタリア・メキシコでは、現地ガイドからそれぞれの遺跡にまつわる神話はじめ歴史のおさらいがあった。古代文明はじめ歴史を勉強し直すきっかけを与えられた点で良かった
特にメキシコでは、Tさんという日本人からは、遺跡のことから世界の歴史にいたるまで、詳しく聞く機会があって大変勉強になった。彼の持論はメソアメリカ地域(注1)、南米にもモンゴロイド系人種がアジアから渡ってきた(注2)ので、いろいろな面で、中国・日本と共通するものがあるという。
(注1)メソアメリカ地域とは現在のメキシコ北部からホンジュラス、エルサルバドルあたりまでのことを指す。南米アンデス地域の古代文明圏と同じように紀元前から数多くの古代文明が栄えた地域だという。
(注2)北からは、氷河時代にベーリング海峡(150メートルの浅い箇所があるという)が干上がっていて民族の移動が可能であった。南回りは海伝いに移動したという説がある。
例えば、ユカタン半島に住む先住民の子孫は体型が「ずんぐり、むっくり」で日本人に似ていると。メキシコ・シティの国立人類学博物館で見た「お香の道具」に相当するものは日本の香炉と考え方は一緒ですと説明され納得した。
また、太陽神はやおよろずの神を信仰する自然崇拝の考え方で、日本と同じである。地下・地上という二元論も東洋の陰と陽の考えと同じである。太陽は地下にもぐり(太陽が地球の周りを回り東から昇り西に沈むように)朝になるとまた地上に現れると信じられていた。
ヒスイが命をあらわす緑色であることは、中国でもメキシコでも同じ。ラストエンペラーで最後のシーンで死んだ母親にヒスイを口に含ませていたという。
テオティワカン(神々の都)はメキシコ・シティーの北に50km程行ったところにある、20平方キロメートルの広大な古代都市遺跡である。紀元前2世紀頃に出現し、7世紀半ばに突然と姿を消したそうだ。何故都市が滅んだのか、いまだに謎は解けておらず、真相は不明である。
数学・天文学など優れた学問を身につけていた人たちはどこへ行ったのか?なぜそうした進んだ文明が滅びたのか?現代文明は滅びないという保証はどこにもない訳だから、万が一滅びた場合には後世の人はどう分析するのだろうか?
太陽のピラミッドの頂上まで、248段あるといわれる階段を、数えながら一気に登る。手すりはあるが、かなり急(傾斜40度くらい)なので降りるときがたいへんだった。
頂上から広場を見下す。祭壇にいけにえをささげる当時の儀式の光景を想像する。遥か15世紀も前に人口20万人程度の大都市があったのか、と感慨にふける。遺跡のガイドブックにはそうした儀式を描いた想像画が描かれている。現実の光景は、観光客がぱらぱら見えるだけ。10月末はオフシーズンなのか。
太陽のピラミッドは、エジプトのクフ王とカフラー王のピラミッドに次ぐ、世界で3番目に高いピラミッドで、その大きさは一辺が220m、高さが65mもある。このピラミッドの頂上には神殿が建てられ、宗教儀礼が行われたと言われている。現在、神殿はない。
パレンケはマヤ古典期の代表的な遺跡のひとつ。4~10世紀に栄えた都市。「この遺跡の「碑文神殿」と呼ばれるピラミッドの下から、マヤで初めて王墓が見つかったということで有名」とガイドブックには書いてある。
しかし、ガイドさんは例外だと言っていた。どの程度例外なのか専門的なことは分からない。ただ、メキシコ・シティの国立人類学博物館で王墓の模型を見ることができた。エジプトの玄室のようなものだった。
この王墓に葬られていたのは、パレンケの黄金時代を気づいたパカル王と言われている。パカル王は615年にわずか12歳で即位した。日本で言うなら大化の改新前後に頑張っていたことになる。
ウシュマルは7世紀の初頭に栄えた。チチェン・イツァーより小規模で、ピラミッドは丸みを帯びている。南北800メートル、東西500メートルのジャングルの中に「魔法使いのピラミッド」や「尼僧院」、「総督の館」、「大ピラミッド」などの数々の遺跡が散在している。
遺跡に行く途中のメリダの街に、野口英世が黄熱病の研究に取り組んだ「オーラン病院」があった。野口英世の功績は、今でもメキシコ住民に高く評価されているという。
没後、日本の有志の方が病院の前庭に銅像を建立し偉業を讃えている。みんな鉄格子のフェンスのわずかな間からいっせいにシャッターを切る。
ガイドが自己紹介の中で「自分が30年メキシコに住んでいてうれしいのは、日本人がメキシコ人に尊敬されていることです。今でも日本人というだけで尊敬の眼で見られるのは、日本の経済力・技術力と先輩たちの功績のお陰と感謝しています。」言っていた。
きっと野口英世も当地で尊敬されていたのだろう。私も日本人として誇りにできるしうれしい話だ。
チチェン・イツァーとは、マヤ語で「泉のほとりのイツァー人」という意味である。ユカタン半島最大のセノート(聖なる泉)を中心にして栄えたことからこう呼ばれている。
旅行案内書には、この泉にいけにえを投げ入れた、と説明されている。しかし、ガイドによると実際に人を投げ入れたわけではないという。旅行案内書だけを見ていると信じてしまうところだった。
戦士の神殿の上にあるというチャック・モールは、かなり遠くに離れないと見えない。時間があればこの上にも登れるのに残念。今回の遺跡の旅は本でいえば「目次」をさらっと見るだけの旅になった。それでもこんなにいっぱいまとめて見る機会は他には考えられない。
次回4月末

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