« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月30日 (金)

10月2日~3日:グアテマラ(プエルトケツアル)

10月2日~3日:グアテマラ(プエルトケツアル)
グアテマラは、勝手に私だけの安息日とした。次のオプショナルツアー「メキシコ7日間」がこの旅行一番のハイライトなので、体調を万全にしておきたいと思った。そこで予約していたグアテマラでのツアーをキャンセルして休むことにした。
ところが、あとで聞いてみると、マヤの遺跡「ティカル」がすごく良かったという。「シマッター」と思ったのは後の祭り。事前によく調べれば、ティカルがマヤ最大の遺跡という。ツアーの選択は難しいものだ。

40度くらいの猛暑の中、1時間もかかる街には出ないで、観光客相手の市場で買い物をする。といっても、パナマと同じで、岸壁に隣接してみやげ物屋が10軒くらい並んでいる。グアテマラ特有のきれいな原色のテーブルクロスを大小10数枚買う。
珍しい油絵のような絵を見つけた。特殊なラッカーのような塗料で仕上げてある。45ドルを35ドルに値切ったが、どうしても40ドルという。みのもんたのクイズ番組ではないが「これがファイナル・アンサー?」と念をおしたら、売り子は画家に携帯で相談するという。画家から委託されて売っているので、任された値段以下では売れないのだろうと思った。結局40ドルで妥協する。

船内でのんびりしたのは、久しぶりだ。食堂も食べる人が少ない。みんなツアーに出払っている感じ。普段表情を顔に出さないウェイターも、今日は笑顔だ。いそがしいストレスがないからだろう。
 ターミナルで買い物を済ませ帰船すると、部屋の掃除をしてくれるTさんが、ハワイのTシャツを着て出かけるところに出くわした。普段のクルーとしての制服姿と違い、いきいきとしていたのが印象的だった。

20歳代の男性とテーブルが一緒になった。
「どこまで出かけたの?」
「街まで1時間歩いて行ってきました。タクシーもあるけど高いし、歩くといろいろな人に会えるので楽しいです」
「昼はどうしたの」
「地元の食堂で、といっても小屋みたいなところでしたが、ハンバーガーのようなものを食べました。ついでに床屋があったので、散髪もしてきました。3ドルでした」
「どんな髪型にされるか心配ではなかった?」
「写真が飾ってあって、どれにする?と」
「なるほど」
「泳げるとことを見つけたので、明日は泳いできます」
若い人の行動力には脱帽。この若者は、120%旅を楽しんでいる。こういう話を聞くのも、また楽しい、

グアテマラも貧しい国のようだ。外務省のホームページによると「平成16年度、水道普及率は40%台と言われている。グアテマラ政府は、貧困層が多く居住する地方部の給水改善を目的とした地下水開発計画を策定し、平成16年度日本政府に対し、同計画の実施に必要な無償資金協力(5.37億円)を要請した」とある。

10月4日:創作粘土
 創作粘土の後半のクラスに参加した。特殊な粘土で、乾くと落としてもこわれない位の強度があるという。粘土の種類・メーカーの名前を控え帰ってから作れるといい。孫との対話の材料が増えた。
作品は、ブローチにチャレンジした。ただ、乾燥させるのに一週間はかかるというので、メキシコに行っている間に、先生に作ってもらうようお願いした。「文化祭」にあたる「収穫祭」というのが、旅の後半あるので展示してもらえると記念になる。

アマンダさんというアメリカ人と知りあい、異文化コミュニケーションについて共通の関心があることが分かった。アマンダさんは、GETの英語の先生。高橋尚子さんが練習している、コロラドのボーダーに住んでいて、日本人のビジネスマンにも英語を教えているという。
「男女のコミュニケーションの差」という題で自主企画をするので、是非出てくれという。2~3人に声をかけて話を聞いた。彼女の話によると、コミュニケーションをとるときに「女性は人間関係を大事にし、男性は仕事を優先する」という。この分野についての専門書を紹介してもらった。アマゾンなら手に入るだろう。

---次回は4月中旬掲載予定です・・・

第六章 ジャマイカからグアテマラまで・・・パナマ運河

第六章 ジャマイカからグアテマラまで・・・パナマ運河
9月25日:ジャマイカ
 トパーズ号が着岸したところから150メートルくらいのところに、シュノーケリングに行く双胴船(タカマラン)が待っていた。総勢100名近くが2船に分かれて乗船。シュノーケリングのポイントまで50分。屋根がついていなかったので、南国の真夏の強い日差しがきつかった。帆の陰を求めて移動。
船長が舵を取っているそばに、ほら貝があったので皆で吹いてみる。「スースー」という音しか出ない。見かねた黒光りした船長が吹くと、ハワイのディナーショーの前に合図として吹くような「ブオー」というたくましい音色となるから不思議だ。

 途中イルカが船を追うように泳いでくる。数頭はいた。あわててDVDとデジカメを取り出す。揺れるのでフラフラして良い写真が取れない。DVDをトパーズ号に戻って編集したら、ほんの数秒間だけイルカが写っていた。あの状態では精一杯。よしとしよう。

紺碧色の海でシュノーケリングが出来て大満足。熱帯魚のような、色鮮やかな魚に目をこらす。日焼けも気にせず海に浮かんでのんびり過ごす。
ところが「こんな海はたいしたことないわ。OOの方が珊瑚もきれいだった」という声が聞こえてくる。せっかく人が楽しんでいるのに。
ポンペイの博物館でも「OOの美術品と比べたら、たいしたことはないわ」という参加者がいた。こうした発言をする人はどこにもいるものだ。たとえそう思っても口にしないことが礼儀。「他人のふり見て我がふり直せ」の諺どおり、自戒の念をもって聞いていた。

9月28日~29日:パナマ運河
パナマ運河の大西洋側の入り口は、コロンという都市。その名前のいわれは、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスにあるという(注)。世界で第二の自由貿易の都市だそうだ。
完成に至るまでには、紆余曲折があったようだ。フランスが最初に建設に挑戦したが失敗。その原因は黄熱病・マラリア対策を誤ったという。フランス政府はアリがこれらの病気の媒体と思い込み病院に水をまいたが当然効果はなかった。建設の犠牲者約30,000人の大半は病死だと言われている。後にアメリカが引き継いで、正式に開通したのは1914年だそうだ。
(注)スペインの方から見れば発見だが、ラテンアメリカから見ると侵略だという見方があり、メキシコやコロンビアから参加した通訳の人は、侵略の側面を強調していた。

パナマ運河を通過する船の数は1.2万隻弱、貨物で年間2.5億トン。1日30隻の計算になる。通行料は年間7億ドル弱というから、アメリカが手放したくなかったのはわかる。スエズ戦争も、スエズ運河の権益をめぐる戦いだった。

この運河の特徴は、閘門(こうもん)システムという特殊な仕掛けで、海抜26メートルの高さの山(実際にはガトゥン湖という湖)を、船が越えるところにある。閘門チェンバーという巾33.5メートル、長さ304.8メートルある巨大な鉄の箱に、通過する船舶を乗せて、その箱の中の水位を調節して箱から箱へと移していく。詳しくは、運河庁のウェブサイト(注)で見られるからすごい時代だ。
この巾が通行可能な船の大きさを制限している。最大規模は、巾32.3メートル、喫水(水面より下の船体の深さ)12メートル、パーズ号の巾は27メートル、全長94.1メートルに規制されている。これが、いわゆるパナマックス・サイズといわれる。
(注)http://www.pancanal.com

運河を通過するのに、8~12時間かかるが、待機時間を含めると24時間かかっている。過去に最速で通過したのは、アメリカ海軍のホーバークラフトが1979年に2時間41分で通過したという。さすが海軍である。優先的に通したのだろう。

パナマの治安は非常に悪いらしく、政府は観光客のために、客船ターミナルにみやげ物屋とパナマの踊りを見せる、観光客専用スペースを整備している。不安全な街から隔離して、みやげ物を買える場所を作ったのである。
観光客から見ると大変便利で、スリなどの心配をしないで買い物が出来る。ただ、普通の人の生活を自分の眼で見たい、という観光客の期待にはそえていない。土着民が上半身裸、ボディ・ペインティング状態で、みやげ物屋に立っている姿は痛々しかった。稼ぎになるので連れてこられた、という雰囲気で彼らの目に生気が感じられなかった。 

パナマ運河では、ソベラニア公園へのエコツアーに参加した。ソベラニア公園は、パナマ運河のほぼ中央、コロンからバスで1.5時間の所に位置する熱帯雨林である。
我々がバスで船に帰ろうとした時に、しのをつく熱帯雨林特有の強いシャワーに見舞われた。我々はバスの中だったので幸い助かったが、30分くらい遅れてスタートした別のグループは、ずぶぬれだったに違いない。しかし、こんなシャワーもここでないと経験できない。

ツアーは、葉切りアリやトランペット・ツリーなど、他では見られないものを見られた。ただ、もう少しジャングル風の所かと期待していたが、パナマ運河建設当時に、工事用の道路として使用していた道を散策するにとどまった。
参加者の年齢層にも巾があるので仕方ないことと割り切る。

トランペット・ツリーと言うのは、通称「ナマケモノの木」。その理由は、この木の樹液が薬に使われ、その成分に麻薬的な効果がある。だからその薬を常用すると、ナマケモノのようになるから。
幹は空洞になっていて、たたくと硬い音色がトランペットのような音色がする。みんなで実際にたたいてみて納得する。参加者はみんな好奇心が旺盛だ。


2007年3月14日 (水)

9月19日:洋上運動会 

9月19日:洋上運動会 
洋上運動会は普通の運動会と違って、赤道直下のやけるような日差しの下で行われた。乗船客の6割近い約500人が参加した。最近は職場の運動会がなくなったので、みんな懐かしい思いで参加したようだ。
狭いデッキを走り回るのは、怪我をする危険がいっぱいだ。大きい縄跳びの練習で骨折した人がいる。それでも、日ごろの運動不足解消とばかり、みんな張り切っている。私も何事も参加することに意義がある、と50年ぶりに綱引きの足をひっぱる。参加すれば楽しい。

9月20日:運動会のゴミはリサイクルします
「回収にご協力下さい。ハチマキ、ペットボトルをピースボート・センター前にお持ち下さい」という。平和と同時にみんなの関心が高いのは、環境問題だ。自主企画に「エコ・チーム」というグループがあって、如何に船内でゴミを出さないか真剣に考えている。
売店には「環境に配慮して、商品を包んだり、袋は出しません」という掲示がある。900人も乗っていると、ゴミの量もはんぱではない。一人ひとりが気をつけなければいけない。船内でどのように処理しているのか興味のあるところだ。

「午後茶」の時間には、マイカップを持参で集まる。はしを持参している人もいた。アジア、中南米の国では、これらが役に立つという。ツアーでレストランによっては、衛生管理が不十分のところもある。自分の身は自分で守ろう、か。
私もはしを持参したが、使わなかった。雑菌に慣れているから大丈夫だったのだろう。マイカップも気にはなりながら、テーブルに用意されているコーヒーカップを使ってしまった。

9月21日:「70才が一人でフェズの迷路に挑戦した話」
 70歳のFさんは、背の高いがっしりした体格だ。バイキングの朝食の皿は山盛りで、周囲の人の目をみはらせる。「朝しっかり食べないとね」と、70歳には見えない。
 私が新日鉄のニューヨーク事務所に駐在していたころ、亡くなられた永野重雄さん(当時70歳くらい)がニューヨークに来られた。所員との会食の際、隣の奥様から制止されても箸がすすんでいたのを思い出す。元気な方は健啖家だ。

 Fさんは旅なれていて「地球の歩き方」の情報を土地の言葉を2~3メモしながら旅行するという。カサブランカからフェズまでの列車は、一日に一本だから早朝船を飛び出す。旧市街の案内人やホテルの手配も、現地についてから一人でやるからすごい。

 「いままで危険な目にあわなかったですか」という質問に「事前の調査はしっかりやります。それに、金目のものは身につけないこと、カメラは親からもらって二眼レフのみとする」と余裕の回答。

9月22日:「日の出とともに日食を見よう」
 日の出の部分日食を見られるのは珍しい。前日の船内新聞の記事を見落とし、いつもの朝食をとっていると、みんな一斉にデッキでカメラを構えている。ハッと気がついたときには、朝日が昇りかけていて船室にカメラをとりに帰る時間がない。
 フェズでのFさんではないが、親からもらったカメラに部分日食を収めた。しかし、これは再生がきかない。天文学に進みたかった長男の顔が目に浮かんだ。「そんな機会をのがすとは・・・」という声も聞こえてくる。
 翌朝の船内新聞に「日食の写真をとられた方、データを貸して下さい」という伝言を載せてもらう。偶然、私と同じキャノンのデジカメを持っている人を見つけ、PCに移させてもらう。

9月24日:文化祭
 文化祭は、自主企画の成果を発表する良い機会である。船内新聞の1ページいっぱいに催し物が載っている。企画名の中には、太極拳、空手、ダンス、ウクレレ、写真展、絵手紙、お茶会、写経、折り紙・・・とあらゆるものがある。
私も健康講座の「総集編」をすることにした。シリーズ6回分をPCにまとめ、プロジェクターを借りてプレゼンテーションする。中味が違うだけで、仕事でやっていることと似たような作業なので楽しい。

 健康講座の「総集編」は1時間では足りないくらいだった。生来こんなおしゃべりではなかったのだが、人事の仕事を長年やっているうちに、変わったのかも知れない。
母親が聞いたらびっくりするだろう。いつも母親に「あんたは話し方が下手だ」といつも言われていた。確かに、今でも自分で「まわりくどい表現」をすることがある。家族からは「主語がない」と言われている。

「創作粘土教室」という自主企画があった。私とよく話をするMさんもブローチを出品している。粘土とは思えない光沢と重量感にびっくり。主催者に「すばらしいですね。二回目もされるのでしょう?」ときくと「粘土を乾かすのに時間がかかるので、後半は出来ないかもしれません」との答え。是非やってみたいものだ。
絵手紙も展示されている。たしかピアノ教室の人が、絵手紙をしていたはずだ。これも後半チャレンジしてみよう。こうして他のグループの作品を見ながら、旅の後半は何をしようかと考える。
---次回は4月初め掲載予定です・・・

9月15日:カナリア諸島、エコ・トレッキング

9月15日:カナリア諸島、エコ・トレッキング
イベリア半島から1840キロメートル離れた、北回帰線のやや北、北緯28度にある。北大西洋上に浮かぶ「常春の楽園」「大西洋のハワイ」と呼ばれる。火山島で地質学的にも特色があり、起伏が激しくバラエティーに富む自然環境に恵まれている。
平均気温は夏24℃、冬17℃と冬でも暖かい。乾燥した気候と美しい海岸のため、年間を通じてヨーロッパ中から人が訪れる、格好のリゾート地。スペインの自治州の1つなので、海の上では西に進んでいるのに、時差を一時間逆に戻すことになる。逆時差といわれる。

トレッキングしたロケ・ヌブロ(Roque Nublo)までは、途中の2回の休憩を含めて一時間弱の初心者向けコースだった。空は抜けるようなフレンチ・ウルトラ・マリーン色。
ロケ・ヌブロの登り口に露天の店が出ていた。サボテンの実とアーモンドのパックとラム酒を買う。ラム酒は試飲したらすごく甘かった。
サボテンの実は初体験。いちじくの感じで少し甘い。帰りのバスの中から、山の斜面にいっぱい実をつけているサボテンをカメラにおさめる。走りながらシャッターを切ったので、10枚目くらいにようやく満足のいく写真が撮れた。撮ってすぐ出来具合を見られるので、デジカメは便利だ。

ロケ・ヌブロへ行く途中ランザロート(Lanzarote)という村があった。ここは昔こういう名前の島が、噴火により水没したときに、その島の住人がこのグラン・カナリア島に逃げてきて作った村だという。大島の噴火で東京に分散して避難していた人が、「大島町」を作ったようなものだ。
このとき現地ガイドさんから「日本の富士山も昔噴火したのですよね。いつが最後の噴火でしたか?」と聞かれた。バスに乗り合わせた30名のツアー客は、誰も答えられなかった。日本のことも勉強しなければと反省しきり。

ロケ・ヌブロの頂上まで、空の色はぬけるような、絵の具では表現できない色。マリーンブルー、それとも、フレンチ・ウルトラ・マリーンブルー?
アメリカのグランド・キャニオンには及ばないが、すばらしい景観だった。眼下に広がる小さな村はグランド・キャニオンとは異なる雰囲気で、村の家々が見える。いかにもこれがトレッキングという実感を楽しんだ。

雲が目の前を移動していく様は、雲の上の人になった気分。ハワイ島だったか、山頂にバスで登り、そこで撮ったパノラマ写真が、我が家の居間の壁に色あせて残っている。
ハワイと違い、眼下の景色がツヅラおりの道と、オレンジ色の家並みと段々畑が素朴な島の生活を想像させる。

9月17日:ディズニー・ランドの舞台裏 
ディズニー・ランドに働いていたTさんが「ディズニーの舞台裏」という企画で話してくれた。ディズニー・シーの建設にたずさわられて、日米の習慣・考え方の差を調整するのに苦労されたとか。
例えば、照明の明るさの基準が、アメリカは日本より暗い。その原因が「ひとみ」の違いにある。アメリカのひとみは、青い色をしていて、明るい光に弱いという。なるほど、アメリカのレストランや家庭の証明は、間接照明が多くうす暗い。メニューも読めない。

「香港のディズニー・ランドが成功しなかった原因は何ですか」と質問したら「地元の中国人のマナー悪く、暑いので裸で見物するとか、歩きながら食べるとか、外人の評判が悪かったからだと思います」という。今は人気も回復していると。
「ミッキーは何人いるのですか?」という意地悪な質問に「いちばん多い質問なのですが、これは企業秘密なので答えられません」と。

9月18日:「しゃべり場 仕事白書」
 これはピースボート事務局の企画で、若者たちが多く乗っているので、ピースボートうってつけの良いテーマだ。関心のあるテーマなのか、100人近い老若男女が集った。
休憩をはさんで3時間半という長時間にもかかわらず、活発な議論が交わされた。ただ、大きなテーマなので、結論は出なかった。
若者の中には「自分は今フリーターです。親に食べさせてもらっています。将来は、子供に食べさせてもらいます」という、笑いを取るためとしか考えられない発言もあった。これを除いてはまじめに悩んだ時間だった。

「自分で何が出来るかを考え、仕事に必要な知識・スキルを身につけることが大事。そのための勉強は最低条件。企業は競争しているから、能力・経験のある人材を求める」と今更ながらの話が必要だった。
「友達が作れないくらい夜遅くまでやっても、家賃月5万円を払ってギリギリの生活でした。帰国後も仕事のあてはありません。不安でいっぱいです」という、30代の女性の悲痛な訴えには答えがなかった。

20歳代が40%乗っているこの船は、日本の縮図のようだ。「自分の好きなことをしたい」というだけで、何も努力していない。いつまで今の状態を続けられると思っているのか?早く「親はいつまでも生きていないのだ」という事に気づいて欲しいものだ。
私が、中学生の息子たちに「親はいないと思え」と言ったのは、息子たちにどう受け止められたのだろうか。その後「『親はいないと思え』という割には、いつもうるさいよね」と言っていた二人も今はもう30歳後半だ。

9月12日~13日:モロッコ

アラビア語で「モロッコ」を「アル マグレブ(AL-MAGRIBと紙幣に印刷されている)」という。「マグレブ」とは「陽の沈むところ」という意味だそうだ。ちょうど日本を出てから50日あまり、日本の裏側に到着したことになる。
モロッコは、古代にはフェニキア、ローマなどの支配を受けたのでそれらの遺跡もある。7世紀にはアラブ人がモロッコ、イベリア半島まで達し、イスラム教が浸透した。ムーレイ・イスマルが、1660年にメクネスにアラウィー朝を確立し、現在まで続いている。

ムーレイ・イスマルは、フランスのルイ14世と親密な関係を築いた。ルイ14世から贈られたという二つの時計もモスクに残っている。
その間1912年フランスの保護領下におかれたが、1956年ムハンマド5世が、フランスに王位継承権を渡すことで、内紛などのない無血で独立を果たした。これはアフリカの独立運動の中では、めずらしい例だという。

ちなみに、国王はイギリスや日本と違って、政治の実権を握っている。大臣の全てと、議会の総議員330の三分の一を任命できるし、軍も掌握している。
そうかと言って、専制君主ではなく、政党が28もあり言論の自由もある。王政と民主主義のバランスをうまく取っているように感じたが、一観光客には本当のことは分からない。

現在の国王モハメット6世は45才で、4年前に結婚した相手の女性は、アメリカに留学してコンピューター、テレコミュニケーションを勉強した才媛だとか。彼女のすすめもあってか女性の地位向上が著しく、現国王は「女性独立のシンボル」として親しまれている。
女性に離婚の道を開いて、裁判所に訴えられるようにした。男の虐待が証明されると、男は罰せられるという。国民の信頼を得ているようだ。

もっとも「国王がジェットスキーを趣味としていて、全国に25もの別荘を持っている」という説明をするときのガイドの心境は、どのようなものだったろう。
現地ガイドのモハメッドに「モロッコの良い所と悪い所を教えて下さい」と質問した。良い所は「親切な人が多い。景色が良い。サハラ砂漠だけでなく農地も豊か」、しかし「政治家はお金を自分のものにする。貧富の格差が大きい。25%は貧困で20%は富裕層」だと。

表立った不満の表現は使わなかったが、婉曲に政治家を批判していると感じた。エリトリアから水先案内人が二人来ていたので、同じような質問をしたとき、二人がお互いにけん制するような発言だったのを思い出す。言論の自由は一朝一夕には得られない。

  映画「カサブランカ」に出てくるサハラ砂漠が頭にあるので、モロッコは砂漠ばかりかと思っていた。しかしその気候は、地中海気候でブドウの生産に適している。ワインをヨーロッパに輸出している。トマトなども輸出しており、ヨーロッパの台所だ。
タコやもんごイカを日本に輸出しているという。東京出身のHさんによると、東京のおすし屋さんはモロッコのタコはおいしい、と言っていたそうだ。

農業が主産業でGNPの70%を占めるとのこと。もっとも土地の75%は国が所有しており、農業からあがる利益の75%も国に収めなければならない。農民は豊かではないようだ。
貧富の差が大きいようなのに、他のアフリカ諸国のように内紛の話も聞こえてこない。不思議な国だ。現状に満足しているのか、国のやり方がうまいのか。
 
(フェズ旧市街)
フェズ旧市街は、9世紀に北アフリカ初のイスラム国家の都として建設が始まった。その後1000余年を経てた今も、15万人が暮らす「生きた世界遺産」だ。最大の特徴は、1000筋ともいわれる複雑に入り組む路地。
フェズの迷絽の市場は、人一人がやっと通れる程の道幅しかない路地。無数の細かい路地が縦横無尽、網の目のようにどこまでも続く。一歩道を間違えると、二度と同じ場所に戻れないのではないかと錯覚する。
輸送機関として、ラバが細い道を堂々と行き交う。大きな荷物でかわいそうな感じ。ここでも多くのネコに出会い、我が家のサンや亡シロを思い出す。

 「バラク!バラク!」と聞こえたら「ロバが通るので道をあけてくれ」という意味だから、協力して下さいという。大きな荷物をのせて、相当早いスピードで駆け抜けていく。道幅が2メートル位しかないので、荷物にぶつけられる。
日本人と分かるのか「ロバ!ロバ!」と叫ぶ人もいた。実際にはロバよりも、ロバと馬のあいのこのラバが多かった。
もちろん、みやげ物を売る人は日本語が得意で「安いよ」はまだしも「ビンボー・ビンボー(貧乏人の値段という意味か)」というのには脱帽。いったい誰が教えたのだろう。

なめし皮工場の臭いは強烈だ。皮の臭いか、皮をなめす薬品の臭いか分からない。入り口でミントの葉をちぎって渡される。それを鼻にこすりつけるようにして見学した。
それでも息苦しいほどの独特の臭い。これはDVDでも伝えられないものの一つだ。ここで買った太鼓は、皮の臭いがきつくて、帰ってから日干しで乾燥させないと使えないかもしれない。(ずっと外に置いてあるが、12月末でも、まだ臭う。)


(サグラダ・ファミリア)

(カサ・ミラ)
ガウディが設計したカサ・ミラを外から見学した。カサ・ミラはミラさんの家(カサ)という意味だそうだ。約400坪の6階建てマンションを思い浮かべてもらえばよい。その頃は家主が2階に住み他のスペースは他人に売っていたが、家全体の名前は家主の名前をつけた。
ミラさんの奥さんは、ガウディがデザインした、二階の自宅の家具・内装が気に入らなかったらしい。そこで1926年にガウディが死ぬと、翌1927年には家具・内装を全部取り替えてしまった。 
 歴史的にみて残念なことだ、とガイドが嘆いていた。ガウディのデザインした家具の一部は、ガウディ博物館に展示されていた。独特の曲線は、人により好き嫌いがあるのではないかと思った。イスなどはうねりの部分が片付けるのに邪魔で、普通のイスに比べたら余分なスペースがいると思う。ミラさんの奥さんが気に入らなかったというのも理解できる。

(サグラダ・ファミリア)
 サグラダ・ファミリア(聖家族教会)聖堂では人ごみも多く、時間も少なかったのであまり印象に残った話はない。1882年、フランシスコ・デ・ビリヤルが計画に着手。翌年、若干31才のガウディが2代目聖堂建築家に就任、以後43年間の人生をすべて聖堂造りに費やした。
 彼の構想では、聖堂の外側にイエスの「生誕」「受難」「栄光」の3つのファサード(正面)が建ち、各ファサードは4本ずつの鐘塔をもつ。計12本の塔は、それぞれ使徒を意味する。また、4人の福音書家を表す4本の鐘塔の交差の上部に、イエスとマリアに捧げる中央塔が建てられ、計18本の塔がそびえる壮大な教会である。

 完成しているのは、地下聖堂と後陣、「誕生」「受難」のファサード、8本の鐘塔のみ。ガウディの死後も工事は続けられ、100年後の完成と言われている。100年後の完成というと気の長い話のように聞こえるが、すぐ近くにあるカテドラル教会は、建立までに400年以上かかっているそうだ。
サグラダ・ファミリアに関して重要なことは、ガウディの残したオリジナルの設計図・模型等は全て無くなってしまっているということ(注)。よって、今作っている部分の細かいデザインは、現在手がけている建築家・彫刻家の腕に依るところが大きいそうだ。
ガウディ自身が手がけた「生誕のファサード」が参考になっていることは間違いない。ガウディにとっては、細かいデザインなど、自分の意の通りになっていなくても何ら問題ないのかもしない。
(注)帰国後「田中裕也さんは、ガウディが図面を描いていなかったことを知った。そこで自ら世界遺産に指定された、5つの設計図を描いたところ、その功績が認められて、ガウディの故郷に広場を設計することになった」という記事が目に留まった(朝日新聞2006-11-20)。

三重県志摩市にあるスペイン村のような、みやげ物屋の集まった場所がある。いつもの自由行動で皆買い物ざんまい。夕方食事のあと、フラメンコの踊りがセットでついていた。
本場のタブラオ(踊りの店)でのフラメンコに一同酔いしれる。約2時間たっぷり楽しんだ。東京で見たより迫力を感じた。観光客の情熱的な拍手・歓声に踊り子も刺激されるのではないかと思う。

「フラメンコはスペイン南部の文化で、バルセロナを始めスペイン北部にはフラメンコは根付いていない」と旅行案内書にあった。ただ、バルセロナはスペイン北部でも圧倒的に観光客が多く、アンダルシア出身の住民も多いことから、タブラオが街中にあるということらしい。これも一観光客にはどうでも良いことで踊りを楽しめばそれで十分。

9月10日:運動会のチーム集まれ
 船内は運動会の準備で忙しくなってきた。東京は長野県や富山県と一緒のグループとなる。グループごとに応援合戦もある。その準備に東京の人は10人くらいしか集まらず、もうひとつ盛り上がらない。
地方の人のほうが結束が固い。人数が少ないからまとまりやすいのかも知れない。参加することに意義があるのに、もったいない。

 参加した人は大声で「さん!さん!七拍子」と叫ぶ。となりの部屋からも元気な声が聞こえてくる。リーダーは「青組に負けないように頑張りましょう!」と必死だ。小学校で声をからして応援したのが脳をよぎる。そう言えば応援が好きだった。

9月11日:「9.11」を振り返って
 5年前にニューヨークで起きた、同時多発テロを振り返る企画があった。フランスの哲学者ジャン・ポートリアールの言葉を引用して「多発テロを実行したのは彼らだが、それを望んだのは我々だ」
 「冷戦後は、アメリカの『一人勝ち』だった。強力な軍事力、経済力をもって、アメリカの理想を世界に広げようとし続けてきた。これによりもたらされたものが、多発テロだ」という主張だ。

 大筋理解もし、同意する部分もあるが、フランス人のアメリカ嫌いの臭いも多少感じられる。今後もアメリカだけでなく、EUの動きにも目を離せない。


第五章スペインから カナリア諸島まで

第五章スペインから カナリア諸島まで
9月9日:スペイン
バルセロナで着岸した場所の近くに、コロンブスの銅像が立っている。ガイドは「今までコロンブスは、ジェノア生まれのイタリア人と言われてきた。しかし最近は、スペイン人だったのではないか、という説がある。
理由は二つ。一つはイタリア人(のインテリ)ならラテン語のたしなみがあるはずなのに、コロンブスはラテン語を知らなかった。
二つ目は、コロンブスは報告書をスペイン語で書いていた」と説明していた。真偽のほどは我々観光客にとってどうでもよいようなことだが、銅像を説明する格好の話のタネにはなる。

(バルセロナ)
ガイドブックにはバルセロナの人口は170万人となっているが、ピーク時は180万人、現在は160万人と減少している。住宅の値段の高騰から、郊外に出て行く衛星都市化の現象がバルセロナでもあるとか。
市内で中古マンションが6千万円もするが、郊外では新築でもその三分の一だそうだ。街のつくりが神戸と似ている(山からすぐに海辺になるところ)から、1933年から姉妹都市の関係にあるという。

ガイドは「この国では祭日に国全体の祭日と、州・市のそれぞれ違う独自の祭日と3種類ある。だから、バルセロナでは祭日でも、となりの市では平常どおり働いていることがある」と説明していた。こういうところに、地方色・独自の歴史・文化を残す意思が感じられた。

 選択したツアーが「ガウディとバルセロナ市内めぐり」だったせいもあるが、一観光客の私にとって、バルセロナはガウディ一色の街だった。ピカソ美術館やオリンピック競技場もあるし、見たいところだらけだが、一日のツアーではガウディだけで終わった。
しかも、目次をさーっと見ただけだった。しかし、現地ガイドが、ガイドブックに載っていない話をしてくれたので面白い一日だった。

現地ガイドと言っても、日本人とスペイン人の二人がバスに乗る。イタリアでもそうだったが、スペインでも必ずその国の人が添乗するが、説明はしない規則になっているという。監視役でもなく、単に失業者対策としか思えない。カンボジアでは、カンボジア人で日本語の出来るガイド一人だった。

(グエル公園)
最初に立ち寄ったグエル公園では「60棟建築予定だった郊外の住宅構想計画(注)が、2棟完成しただけで失敗に終わった。「おかげで、今日こうしてガウディの作品が見られるのです。歴史では何が幸いするかわかりません」というガイドの説明がおもしろかった。
(注)甲子園が4つはいる位の広さ。

完成した2棟は、今で言うモデルハウスのようなものだったそうだ。奇抜なデザインのためか、その内1棟しか売れず、1棟はガウディ自身が買い取って住んでいた。
それが現在はガウディ博物館になっていて、当時の家具・調度品・ガウディの描いたデッサンなどが展示されている。家具もガウディ独特のカーブがついていた。思ったよりも狭い建物だった。

もう一つは今でも民間の人が住んでおり、グエル公園全体(注)を自分の庭と心得ているらしい。ずいぶん贅沢な借景である。
島根県にある足立美術館の庭園でも、背景となる山々を借景としている。文字通り「借りる」ために、山の持ち主に対して、美術館は相当な金額を払っている。その代わり借景をそこなう建物を建てない約束になっていると聞いた。
(注)バルセロナ市が住宅予定地全体を買い取って市民公園とし、税金で樹木などを整備している。

 公園の広場には、うねった形の蛇行形ベンチが周囲を取り囲んでいる。ベンチは色とりどりの、破砕タイルが埋め込まれている。ベンチのうねりは、地中海の波をイメージしたものという。
座った人が自然な姿勢で、お互いに話し合える位置に座れるように工夫したという。実際に座ってみて納得した。トカゲの噴水も、その奇抜なデザインが印象に残っている。

こうしたガウディのアイデアは、いろいろな所に見られる。例えば、郊外なので予定していた60棟の住民のための市場を、この公園の下に想定していた。
一方、庭木への散水用の水を雨水でまかなうこととなった。そこで雨水を、この市場となる予定の天井部分に貯水できるような構造にした。公園全体の地面で水を受け止めるように、公園には水を通しやすい砂利を敷いてあるそうだ。公園全体はドーリア式の柱86本でささえられている。俗に100本の柱と呼ばれる。

2007年3月 2日 (金)

(ポンペイ)

(ポンペイ)
ポンペイでも他の遺跡と同様、修復工事が目立った。ファインダーの向こうの遺跡は、クレーンとほこり防止のテントの風景に溶け込んでいる。修復工事中の遺跡群といった感じである。
遺跡の保存・修復に時間と金のかかることは、アンコールワットでも見聞した。2年前に行った佐渡島のお寺は、有名なものを除いて損傷がはげしく、今にも朽ち落ちそうだった。保存の為の金が回ってこないのだと説明された。

紀元1世紀の頃、カンパニア地方の中核都市であったポンペイの人口は、一万人を超えていた。劇場や円形競技場、公衆浴場などが整備され、その繁栄を謳歌していた。
紀元79年、ヴェスビオ火山の大爆発により、一瞬にしてその時を止めた永遠の町、それがポンペイ。なんといってもこの遺跡の特徴は、住居跡、パン屋、浴場、劇場など、街がまるまる一つ地中から現れたということ。そして、この街に住む人々の息吹が、今でも遺跡全体に残っていることだ。

爆発のとき、逃げ遅れた人々は、火山灰の中に毒ガス等で埋もれて死んだ。火山の噴火によって滅んだのに、なぜここまで完全な形で残っていたかというと、土石流などが無く、灰が静かに街を覆い隠したからだという。
後に発掘されたとき、遺体の肉の部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。考古学者たちは残酷なことをするものだ。
顔の表情まで詳細には再現できなかったが、これらのうちのいくつかからは、恐怖の表情が想像できる。母親が子供を覆い隠し、火山灰から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も、生々しく再現されている。見るのも痛々しい。
 
日本人の現地のガイドが良いことを言っていた。「皆さん、柱一本の遺跡から、当時の神殿の様子を想像して下さい。皆さんの想像力で、当時の様子を頭に描いてみて下さい」
絵葉書の中には、現在の写真と当時を想像して描いた絵が対比してあるものがあった。遺跡の解説書にもこうした絵がときどき見られる。

(イタリア人の男性)

「イタリア人の良いところと悪いところは?」という質問に対してガイドのMさんは
「良いところは、何事にもプラス思考で明るい。悪いところは、公衆道徳がないこと。自分の家はきれいにするのに、外では平気でごみを捨てる」
「警官もあまり真剣に働いていないように見受けます。特にナポリでは、すり・かっぱらいが多いので、皆さんも十分気をつけた方がよいですよ」
「なぜそんな風になってしまったのですか?」
「経済状態もよくありません。移民・難民が多く、イタリア人以外の人の犯罪も多いのですよ」

日本人の女性ガイドMさんは、イタリア人の男性についてきかれて「よく女性をほめる。これは子供の頃からの習性。偉いと思うのは、結婚してからも美しい、愛していると結婚前と変わらない調子で言い続ける。とにかくよくしゃべる」
「良い悪いではないが、イタリア人の男性はマザコン。結婚しても母親に一日7~8回電話をかける。かしこい男性は、奥さんの前で1~2回かけ(1回もかけないと冷たい人間と思われるから)職場で5~6回かける。何の用もないのに「やーママ元気」だけなのだが」
(帰国してこの話をしたら「電話をもらったら、かえってうるさく迷惑だわ」という反応があった。)

日本でも、育った家庭の味を奥さんに期待するという話があるが、イタリアでも同じらしい。おふくろの味でないと、同じになるまでおふくろに訊けという。
几帳面な母親に育てられ、ワイシャツはもちろん、靴下にまでアイロンかけてもらっていた男性は、出張先で洗濯に出すと縮むので、そのつど新しい靴下を買っていたという。アイロンをかけない奥さんだと、おふくろに(アイロンつきの)洗濯を頼む。イタリア人の奥さんも、そうされることを気にしないらしい。

またこのガイドは「イタリア人には、喜怒哀楽の『哀』が欠けている」という面白い観察をしていた。思い切り大げさに喜びと怒り楽しみを表現する反面、「哀」の表情を見たことがない」
「それとイタリア人は、手足を動かさないと会話が出来ない。話しながら必ず手足を動かしている。指で数える方法も日本と違う。ガイドのいとこが三才になるが『ぼく何才?3才?』と日本流に人差し指、中指、薬指を出すと、きょとんとしている。そして、1、2、3と親指から順に人差し指、中指と数える」とのこと。たしかアメリカもこれと同じだ。

---次回は3月中旬掲載予定です・・・

9月3日~4日:クロアチア(ドブロブニク)

9月3日~4日:クロアチア(ドブロブニク)
イタリアを対岸に望み、アドリア海に面したドブロブニクは「アドリア海の真珠」と称えられてきた。旧市街は、14世紀東西貿易の要衝として栄えた、自治都市の面影が色濃く残されている。
石畳は大理石で建物は花崗岩である。レンガ色の屋根と紺碧の空の色彩のコントラストが美しかった。絵にしたい写真がいっぱいある。もう一度訪れたい場所の一つだ。
 
周囲の長さわずか2キロメートルほどの小さな街。しかしここには、14世紀以来、ヨーロッパで最初に作られた薬局や、孤児院などの福祉施設があり、上下水道などの公共施設も充実している。
その背景には、貿易で利益をあげた商人たちが、その金を独占することなく、街のために使ったことがある。ドブロブニクの人々は、大国のひしめき合う中、自分たちの自治都市の独立を守るため、もっとも大切にしたのが「自由」だった。戦争を忌み嫌い、商才と外交能力で解決してきた。1979年には世界遺産に登録された。

9月6日~7日:イタリア(ナポリ)
「ナポリを見てから死ね(Vedi a Napoli e poi muori)」ゲーテをはじめ様々な人々が、かつて王国の首都であったこの都市を賞賛している。
しかし、実際にこの眼で見ると、伝えられるほどきれいな街ではなかった。戦争の弾痕が残っているビルは、放置されたまま。そうしたビルにも最近まで人が住んでいたという。

バスの窓から見ただけでは街の全体を判断できないが、ゴミも散乱しており、遺跡らしい石像に、スプレーのようなもので落書きがある。まるで一昔前のニューヨークの風景である。
 この街は、ギリシャ時代のネオポリス(ネオ:あたらしい+ポリス:国家)から始まり、ノルマンの王国時代、スペイン統治の時代、ブルボン家の時代などを経て現在のイタリアに統一されている。
ありとあらゆる時代を経験してきた、イタリアでも屈指の歴史的な街であるといえる。ナポリは様々な時代のかたまりだ。治安さえ悪くなければゆっくり観光したい街。

 ナポリには100年の歴史のある地下鉄もあるが、最近新たな地下鉄工事が着工された。しかし、掘るうちに遺跡にぶつかったので、遺跡の保存を優先して工事が進まないという。そんなことは計画する段階で十分分かっていたはず、と現地のガイドさんの指摘はきびしい。
アテネでは「ミニ博物館」のある地下鉄の駅が多いそうだ。地下鉄工事の際に出土された遺跡を、駅ごとに作ったミニ博物館に展示してある。バスからもそうしたミニ博物館が見えた。市民は博物館に行かなくても、地下鉄に乗るついでに世界遺産を見学できる。さすがは遺跡の街であると感心。

「ナポリではクーラーは要らないのですか?」という質問に「クーラーをつけている家はあまり多くありません。ナポリの夏休みは3ヶ月と長いわりに、暑い期間は6月の一ヶ月だけで7月になると涼しくなります。
それと働く男の人は、一ヶ月くらいしか休みませんが、家族は3ヶ月別荘(日本の別荘というのではなく、アパートの部屋という感じ)を借りてナポリを出ます」とガイドさん。

「それにクーラーは20万円位で、公務員の月収10万円の二倍ですから、イタリア人は一ヶ月がまんしてそのお金を別に使います」緯度からすると、ナポリは40度より少し北だ。日本では岩手付近に相当するので、夏の期間も短いのだろう。

「ビルとビルの隙間に、ロープを渡して洗濯物を干している風景を、TVなどでご覧になったことはありませんか?今では法律で禁止されているので、残念ながらそうした風景を見られません」というガイドの話の直後「ああー、今日はめずらしく干していますねー」と。

ナポリといえば、スパゲティ・ナポリタンとかピッツァを思い出す。ナポリ風のピッツァといえば、北部のパリパリっとした薄いピッツァとは異なり、モチモチっとしたやや厚手の生地のピッツァが特徴。
一番のおすすめはベーシックな、トマトソースとバジリコとモッツァレラ・チーズで作った、マルゲリータだという。モッツァレラ・チーズも、水牛の乳から作るのがオリジナルだが、現在は普通の牛の乳からも作られているとか。我々は、水牛の乳から作った、本物のモッツァレラ・チーズの味というのは知らないのだと思う。

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

最近のトラックバック

2009年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31