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2007年1月30日 (火)

(私の「彼岸」)

(私の「彼岸」)
私の現在の「彼岸」は別荘である。別荘を買ってもう5年になる。気がついてみると別荘と東京の生活を、温泉を除いては同じような環境にしようとしている。
例えば、ピアノの練習用にエレクトーンを持ちこみ、油絵の道具をワンセット置いてある。まだ東京ですることが多くて、伊東では油絵を一枚しか描いていない。友人に言わせると、本当に油絵が好きだったら他のことをおいてでも描くべきだと。確かにそうかも知れない。

精神面では、夢の世界は一時的な来世・死後の世界ではないかと思う。夢と彼岸との差があるのは、夢がさめるとこの世に戻るが、彼岸(来世・死後の世界)は永遠である。
法事やお盆に親族が集まるという風習は、日本の良い伝統だと思う。親族が集まり、在りし日の亡くなった人をしのぶのは、亡くなった人と現世の人と会話しているとも解釈出来る。

最近の親戚の法事で、義母が「お父さんの肉体は天国に召されたけれど、魂は毎日私たちのことを見守ってくれている」としみじみと話していた。
我が家でも、毎朝愛犬2匹の写真を前に「今日も一日家族を守ってね」と話しかけている。その瞬間には、ロッキーとコロの魂は我が家に戻っているのだと思う。

 自分は、遺伝子という観点からは、半分子供に乗り移っていると言えるのではないか。だから、死後も息子の魂の半分を借りて、引き続き世の中を見ることができる。
そう考えれば「死」後、肉体は土にかえるが、精神・魂は子供の心に(勝手に)移るのだから怖いことではない。死を恐れて心配する時間があったら、せいぜい今を楽しむ時間を大事にしたい。

 船内のスピーチ・コンテストでのこと。コロンビア3世のSさんが「今ピースボートで旅行しているのを、天国にいるおじいちゃん(日本人)も一緒に見ていると思う。おじいちゃんありがとう」と日本語でスピーチして観客は大拍手。同じ発想をするものだと思った。彼と話してみたい。
 中野孝次の「ガン日記」(文芸春秋2006.7)には、次のように書かれている。「衰えつつも一日一日をよろこんで迎え、日々何かの楽しみを見つけなければ、生きていても詮なし。晴れやかに、快活に、日々を生きよ、と自分に向って命ず」

さらにセネカを引用して「人生がどこで打ち切られようとも、わが幸福なる人生に何一つ欠けるものはない。幸福なる人生とは、心に不安がないこと、不動の内的な平安があることだ」と。
ガンを告知されると誰しも「なぜ自分だけが」という反応をする。セネカは「誰かに起こりうることは、誰にでも起こりうるのだ」と言う。これは正しい指摘だが、いざその場面になると人間は弱いのだ。
 よく「あと1年の命と宣告されたら?」というが、私は「あと10年の命」と宣告されるのとでは大差ないと考えている。あと1年だから一日一日を大切に生きる気持ちを、10年間持ち続けることが大切なのだ。でも、人間それがなかなか出来ない。まだ10年もあると考えて無駄使いしてしまう。

(王家の谷)

新王国時代になるとファラオ(王)たちは、ピラミッドで盗掘されるのを防ぐため、ルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地を求めた。これが王家の谷である。
王家の谷の外観は、ピラミッドの壮大さに比べて、西部劇に出てくるような荒涼とした砂漠。インデアンが崖の上から銃で狙っている光景を思い浮かべてもらえばよい。中王国時代には、ミイラにつけていた宝飾品が盗掘の対象となり、ミイラは放置された。
ここでも略奪は避けられなかったが、ツタンカーメン王の墓は、質素だったから盗掘をまぬがれたという。それでも、その副葬品が5千点ともいわれ、カイロにあるエジプト考古学博物館の2階の半分を占めている。

 バスで移動中、降雨量がゼロの土地に青々とした緑が続く。灌漑技術が優れていたといっても、ロバが動力で簡単な水車を回してナイル川から水を汲み上げるもの。
ラスベガスも砂漠の真ん中に作られた町である。現在はカジノを中心とした観光業が栄えている。ここはコロラド川から大きなパイプラインで水を引いているので、エジプトとは灌漑の仕掛けの規模が違う。
 エジプトがラスベガスと違う所は、ナイル川が上流の肥沃な土地を運んできたので農業が栄えた。エジプトのほうが生活のにおいがする。

(ギザのピラミッド)つづき

(ギザのピラミッド)つづき
玄室の前には現地の老人が座って、観光客の写真を撮っている。ガイドからの事前の説明では、こうした人はチップで生活しているから、US1ドルのチップを渡すようにとのことだった。
1ドル札を先に渡しながら頼んだら、ニコニコとあいそが良かった。入り口の石だけが、そうした写真を撮ってもらう観光客がさわるので黒ずんでいる。その石をさわった二枚目の写真は写っていなかった。残念。

代わりに二番目に大きい、カフラー王のピラミッドの玄室に入った。カメラはガイドに預ける規則になっている。このあとの王家の谷の見学でも、カメラ撮影禁止となっている所が多かった。
ところが、王家の谷で「カメラは持ち込んでも良いが、撮影は禁止」という墓で、我々の参加者の中で若い人が、こともあろうかフラッシュをたいた。監視人が飛んできて何か言っている。若い人と一緒だった熟年の人がしきりに説明している。

こんな光景を遠くから見てしまったので後味が悪い。よく「見なければ良かった」ということがあるが、まさしくその一例である。
あとで参加者の一部で話題になり「近頃の若いものはけしからん」という反応から「お金で解決するのですって。だから監視人がウロウロしてるのよ」と反応はさまざまだった。
その後その若者の姿が、なんとなく元気がなかったのは「しまった」と反省しているのだろうか。それとも?今後の旅行での彼の態度を観察しよう。

昔は「ピラミッドは奴隷に働かせて作った」というのが定説だった。現在の通説は、ナイル川の氾濫時期で農業が出来ない農閑期に、クフ王が農民に公共事業として作らせたという(報酬も与えた)。クフ王は世界で最初の公共事業をした人だ、とガイドは自慢していた。
完成するのに40年かかったというが、作業していたのはナイル川の氾濫時期(7~10月)の4ヶ月だけだから、実質5年の建設期間だとか。それにしても平均2.5トンの石灰岩を230万個も、気の遠くなるような数である。

ピラミッドを見学する順番は、必ずしも古い時代から順を追ってというわけではない。最初に案内された、この第一ピラミッドはクフ王の墓。クフ王の時代は古王国時代(第4王朝)。
ガイドが最初にエジプトの歴史を詳しく説明していたのは、時代によりピラミッドの形が違うからだということが分かった。後に見学した第3王朝時代のサッカラのピラミッドは、階段式ピラミッドといってその作り方が違う。
(*)古王国はおおよそ紀元前2500年から2000年のあいだ。第3~6王朝。

エジプトの神官の大事な仕事は、王のミイラを作ることだった(注1)。遺体は必ず復活するというのが古代エジプトの考えだ(注2)。
王の来世の生活を可能にするために、現世で使っていたものを副葬品として、ミイラと共に埋葬した。
(注1)ミイラの作り方:心臓以外の臓器(胃・腸・肝臓・肺)を目・鼻・のどから取り出し、カノプス壷に入れてホルマリン漬けにする。そのあと乾かしてリネンを巻く。2~3ヶ月かかるという。
(注2)彼岸の世界が西の方にあり、そこで永遠の生をうけると考えたので、王国から西方の地に墓所を設けた。死者の身代わりであり、死者復活のときに精霊が宿ってよみがえるべき肖像は東向きにおかれた。

「マスタバ」(アラビア語で「ベンチ」を意味する)とはピラミッド上部を水平に切り取ったような台形の墓のこと。マスタバの上に釣鐘状の4段ピラミッドが築かれギザのピラミッドへと変わっていった。
時代がすすむにつれて、マスタバには内部空間を持つものが現れた。そしてついにはピラミッドを取り囲む「住居」へと変化した。

この住居は、故人の生前の住居を模したもので、故人の私室のほかに家族のための部屋があった。玄室(「王の間」)の前に供物と副葬品の部屋があり、地上へと通じる井戸穴の上に「偽扉」と故人の像のある部屋(注1)がある。
偽扉は、祭祀を執り行う部屋のすぐ後ろにあった。死者は、偽扉を通して清め・開眼・開口などの儀式を見守っていると考えられていた。このようにして、家族は生と死と超えてコミュニケーションを保ち、家族関係はこの世と「彼岸」の間で保たれていたのである。(注2)
(注1)「彼岸の世界:死後の国」は太陽が沈む西方にあると考えられていたので、この部屋はマスタバの西側にあった。この考え方はアンコールワットでも同じ
(注2)「エジプト」日本語版、2001 CASA EDITRICE BONECHI Firenze Italia ISBN 88-8029-700-7)

こうした考え方は、前から聞いていたが、遺跡を目の前でみながら説明を受けると、なぜか感動した。特に「家族は生と死と超えてコミュニケーションを保ち、家族関係はこの世と『彼岸』の間で保たれていた」という部分は、自分の今後たどる道と重ねてみた。

小学校のころは考古学に少し興味もあったが、勉強する機会がなかった。今回の旅行で、5千年の歴史を持つエジプトの世界遺産を目の当たりに見て、古代エジプトについての本とDVDを買った。
ツアーから船に戻って、昨日までこの眼で見てきた遺跡・壁画・像とDVDの映像・本の写真とを見比べてみる。改めて考古学に興味を持った。これから時間をかけてゆっくり勉強しようと思う。


第三章 スエズ運河からエジプトまで-1

第三章 スエズ運河からエジプトまで
8月24日:ムバラク平和大橋

スエズ運河通過の前日、NHKのXプロジェクトで放映された「1970年代の運河拡張計画を請け負った、水野建設の物語」のビデオが上映された。非常に硬い岩盤のため難工事だったそうで、水野建設が開発した「カッターチップ44D」というモリブデン合金で乗り切ったとか。
日本がスエズ運河の難工事に協力したこと、運河をまたぐ橋を無償供与(2001年日本政府開発援助)した歴史もあり、日本とエジプトの関係は良好だそうだ。

「ムバラク平和大橋」は、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶ唯一の橋である。この橋は、日本との友好関係を象徴して通称「日本アラブ友好の大橋」と呼ばれているという。
橋の中央にエジプトと日本の国旗がはためいている。旗をカメラに収めながら、なにか日本を誇りに思える一瞬だった。

船内放送がこの橋は「鹿島建設・新日鉄・日本鋼管の共同で建設された」と伝える。新日鉄の名前になつかしさを覚えると同時に、今は日本鋼管の名前のない企業競争の厳しさも感じた。
橋などの構造物の建設への経済援助(上記、日本政府の開発援助)は、目に見える形で残るので後世の人々も理解しやすい。

8月25日:スエズ運河通過
通過に12~14時間かかる。2時間も巾があるのは、途中にある湖で反対に進む船団とすれ違うなど運河ならでの制約があるからだ。

改修工事で、巾は80メートルから倍以上の160~200メートルに広げられ、大型船も通行可能になった。これも、ビデオで紹介された「水野建設」の貢献なのだろう。
運河内では13ノット(約時速23キロメートル)と制限されているが、意外と速く感じられる。「ムバラク平和大橋」を橋の真下からカメラに収めようとしたら、すぐに通過してしまった。

トッパーズ号のスエズ運河通行料は1千万円だという。スエズ運河を通過する船の数を考えると、いかにその権益の大きさがわかる。1869年の完成後6年後に英国に売却され、英国はその後数十年間にわたり莫大な利益を得た。
エジプトはその権益を取り戻すべく、1956年ナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言した。これをきっかけに、第二次中東戦争(スエズ戦争)が勃発。米ソが英・仏・イスラエル三国を激しく非難し、エジプトの外交的勝利に終わったという。
歴史的な出来事が起きた現場にいる、という意識で若干緊張した瞬間だった。

(アラブ商人)

スエズ運河は171キロメートルと長い水路なので、水先案内人も4回も替わる。驚いたことに、アラブ商人がタグボートに乗ってトパーズ号に乗り込み、みやげ物を船内で出張販売する。おそらく運河通行にあたっての契約の中に、そうした販売を認める条項が入っているのだろう。
エジプトには「人口の数だけのアラブ商人がいる」という諺があるくらい、アラブ商人はしたたかだと事前の説明を受けていた。今のエジプト人は、イスラム教を信仰するアラブ人。陽気で人なつっこい一方、観光客に高い値段をふっかけると悪評も高い。しっかり値切るように指導があった。

8月26日~28日:エジプト
(ギザのピラミッド)
「間もなくピラミッドが見えてきます」のガイドの声にハッと眼を覚ます。朝が早いのでバスに揺られて、ウトウトしていたらしい。
アパート群のすぐ後ろにピラミッド。こんなに民家に近いところに世界遺産があるなんて!いつもTVで見る光景とは異質だった。トイレ休憩したレストランから、バスでたったの2~3分。

 ピラミッドの前で、ラクダに乗った写真が記念になる。希望者はまとめて事前にガイドに2ドル払う。だからラクダを引っ張ってくれる人には、チップは払わなくてよいと言われた。
 それなのに、写真を撮り終わるとガイドの見えない位置で、さかんに「バクシー(チップ)」と要求する。思わず「ガイドさーん」とどなったら手を引っ込めた。
他の参加者も同じようにチップを要求されたという。若い女の子は「私は投げキッスをしてごまかしたわ」と。たくましい限り。

エジプトには108のピラミッドが発見されたという。その中で最も有名なのは、ギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)だ。これは、高さ147メートル(注)、底辺230×230メートル。
近づくと威圧される大きさだ。5千年(4500年前の建造)の歴史を感じて興奮するはずだった。しかし意外と冷静だった。
理由はTV・ビデオの映像で、何度も見ているからだろうか?最近のコンピューター・グラフィックの映像を見ていると、あたかも自分が画面に溶け込んでしまい、その場にいるかのような錯覚をおこす。
石段を登るときも、どこかの岩場を登るような感じで、世界遺産の上に立っているという意識はなかった。観光客の列に入って、後ろからせかされた状態だったからかもしれない。
地下にある王の遺体を納めたと思われる、玄室までは見られなかった。ここは一日に先着300人に制限しているので、前泊者で朝早くから並ばないと見られないという。


2007年1月18日 (木)

(水先案内人)

(水先案内人)

水先案内人のTさんは、1998年にエリトリアを訪問した。その頃は国連軍が入っていたので、金回りがよいのか物乞いがいなかった。今回少し物乞いがいたのが残念だと。
「経済が軌道に乗るのには、大分時間がかかりそうですね」
「エジプトと戦争している間はダメですよ。現在はソマリアがエジプトと代理戦争していますがね」

Tさんとは昼食のわずか20分足らずに、いろいろな話を聞けた。
「最近TVに出るようになって分かったことに、確定コマーシャルという概念があります。これは、あらかじめコマーシャルの始まる時間が厳密に決まっていて、この場合は話を予定よりも長く話してもダメだし、そうかと言って早く終わってもダメ。
後者の場合は、つなぎの言葉もあらかじめ考えておかなければならない。昔映画解説の淀川長治さんが、TV番組の最後に『さよなら、さよなら・・・』と繰り返していた意味が最近分かりました。あれは時間を調節していたのですね」

「みのもんたが、NHKに自由にアドリブを入れさせろ、と文句を言っていましたよね」
「あれはヤラセらしいですけどね」
「さすがに内幕をよくご存知ですね。ありがとうございました」
 
(エリトリアのかかえる課題)

 エリトリアの若者二人がポートサイドまで乗り込み、エリトリアについてのワークショップを開いた。その中での説明では「現在エリトリアで一番優先順位の高い問題は健康で、ついで教育、性の差別(女性の進学率が低い)、サービス(輸送など)」で、雇用は5番目だった。
独裁政治の中で「言論の自由」はあるのかと言う質問に、一人は「民主主義の政治だから問題はない」という優等生の答え。他の一人からは「民主主義をめざしているが、道のりは遠い」と本音の答えがあったのはおもしろかった。お互いに発言をけん制している印象を持った。

(買い物)

朝7時すぎのマッサワの町。屋上のジャグジーで会ったKさんが、カフェーで現地の人と親しげに話している。
「銀細工のみやげ物屋さんを知りませんか」
「(現地語らしい言葉で訊いてくれて)8時にならないと開かないらしいですよ」と親切に教えてくれる。Kさん、ジャグジーで真っ黒に焼いた肌の色と精悍な風貌が、町の風景に完全に溶け込んでいる。

みやげ物に銀細工がよいときいたのだが、なかなかまけない。Tさんの話でも、中東ならちょっと店から出るそぶりを見せるだけで、まけるか或いは子供が追いかけてくる。ここはしっかりしている、と。
銀細工の店では、ピースボートの熟女が大勢で「昨日のオーナーは同じものを50ナクファと言っていたのに、今日は高くなったの?」と若い店員にくってかかるしまつ。おまけに「これだけしかお金がないからまけといて。お兄さんハンサムよ」と日本語で。ダメという店員に対して金を渡して強引に品物を持ち去ろうとする。
店員は「これ一つでも500ナクファするのですから、ダメですよ」と真剣に説明する。買い物ツアー族のいやな場面に遭遇した感じで、早々に立ち去る。顔見知りの京都の姉妹もあきれて店を出て行った。

8月23日:船内のジョーク

エリトリアでは電気・水・紙などが不足している。ツアーで夕食に立ち寄ったホテルの食堂で、普通はつけないの電灯を、特別我々のためにつけてくれたらしい。もっとも、100人近いお客が一度にくることは、ピースボート以外にはないのだろう。
水やコカコーラを配る従業員もとまどい気味。結局、ビールの在庫ゼロだったので不満が渦巻く。ときどきコカコーラの原液が底をつき、コーラも飲めないとか。飲み物はコーラしか置いていない。さすがはコカコーラこんな所にも進出している。

 紙が不足しているので「エリトリアのヤギは空腹になると、郵便局のポストの裏側に並んで、観光客がハガキを投函するのを待っている」そうだ。そういえばピースボートに何回も乗っている人が「エリトリアからの郵便は、日本に届かないことがときどきある」と言っていた。
その郵便局に行って記念切手を買う。切手にはエジプトとの戦いの歴史が描かれている。紙幣とともにめずらしいおみやげになった。

次回は1月末に掲載します。

エリトリア(マッサワ)

8月17日:健康講座③「すいみん」

 健康講座も3回目となり「すいみん」について取り上げた。参加者の中に船で寝つけないと悩みを訴えていた。
・ 夕食後1時間静かにしたあと軽い運動(散歩を30分くらい)すること。
・ 夕食後シャワーを浴びたら、1~2時間後に体が冷えてくるタイミングを逃さないで寝ること。(寝ている間の体温は下がっているらしい)
・ 寝る前に興奮したり、照明の明るいところは避けること。(TVで実験していた)
・ 規則正しく早起きして朝日(1500ルックス以上)を浴びること。
・ 寝る前の飲酒は良くないこと(血液の循環を良くする程度の少量は良い)
などを経験から話したら、早速試してみますと言っていた。

8月18日:「私達は知らない間にテレビにだまされているかも?」

 水先案内人の講話に「テレビと国際政治:私達は知らない間にテレビにだまされているかも?テレビの裏話を聞けますよ!」というのがあった。
確かにテレビだけでなく新聞・雑誌も含め、いわゆるマスコミの報道内容は、余程注意していないと偏った情報を正しいと信じてしまうリスクがある。

 若い人にも勧めているのは、一つの情報源だけに頼らないで、複数の新聞・テレビを見るようにすることだ。勿論簡単なことではないが、そうした心がけがないと一方的な報道でも、簡単に信じてしまう危険がある。例えば、たまには「サンデー・プロジェクト」と「報道2001」の両方を見る。
もっとも最近の若い人は、インターネットを新聞代わりにしていて新聞を読まない。私の長男も自宅で新聞をとっていないらしい。会社では読んでいるようだが。

8月21日~22日:エリトリア(マッサワ)

エリトリアは紅海のインド洋寄り、エチオピアのとなりに位置している。九州と北海道を合わせた広さに、400万人弱の人口が住んでいる。日本へは羊・胡椒・塩を輸出し、日本からは車を輸入している。

 エリトリアは30年もの長い闘争の末、1991年にエチオピアから独立した(注)。まだ15年しか経っていない、アフリカで一番新しい国である。アフリカには新しい国が次々と独立して、なんと現在53ヶ国もあるという。
寄港地マッサワ港は海岸なので昼間41度という猛暑になる。マッサワ港のツアーでは、空爆を受けた元大統領の別荘を見たが、傷跡が生々しかった。
(注)外務省のホームページでは、1991年エリトリア臨時政府樹立を宣言、1993年エチオピアより独立となっている。

マッサワ港の市場も見学した。日用品から地元でとれた野菜類まで、無造作に山積みされている。コーチンの島で見た店先よりは少しましだが、貧困そのもの。わらぶきの小屋が住まい兼商店だ。
誰かが「戦後の日本よね」と感想をもらした。「この国は戦後15年らしいけど、戦争に疲れてホットした顔色をしているわ」という感想もあった。

(平和とは諸国家、諸民族の「共生」)

小沢一郎が「平和とは何かといえば、諸国家、諸民族の『共生』であり、環境は自然との『共生』である」と述べている。更に「こういった発想は、キリスト教を基調とする欧米文明からも、イスラム圏からも、なかなか出てこない。彼らにとっての宗教的対立は恐らく不可避的なものでしょう。
その点日本人は、ものすごくいい加減で、融通無碍。八百万(やおよろず)の神がいて、死ねばみんな神様、仏様になる」という。(文芸春秋2006-12)

「平和とは諸国家、諸民族の『共生』である」という小沢一郎の言葉は、興味深いものがある。健康講座で「人生を楽しく生きる」には、自然・若者たちとの「共生」と言った参加者がいた。他の人々と共生すれば、争わなくて人生を楽しく生きることが出来るということ。
諸国家、諸民族の歴史・文化・価値観等々は、それぞれ違いがあり、その違いを認めることが平和への一歩ではないのだろうか。違うものを「一つ」でなければならない、これが「一番良い」と決めつけるところから対立が生まれる。

辻元清美衆議院議員は「若者たちは被爆した人や紛争地の人たちの話を聞くなど、衝撃的な出会いや体験をしたときにすごく変わる。教科書で教わるだけでなく、実体験を伴ったとき人間の背骨になる」と言っている。(朝日新聞2006-11-17)
若者に限らず誰でも、体験によってものごとの認識は変わるものだ。「かわいい子には旅をさせよ」「寮生活を経験すると親のありがたさが分かる」と言われる。日常生活では気がつかないことが、旅あるいは寮生活という別世界で「ハッと気がつく」場面が生じる。

ケニア(ツァボ国立公園)

8月14日~15日:ケニア
(ツァボ国立公園)

港からツァボ国立公園まで、片道4時間の7人乗りのミニバン旅行。このミニバンは、エアコンもないのでムッとする。窓を開ければ猛烈な砂ぼこり。マスクは欠かせない。タオルを首に巻いて砂ぼこり対策。そのタオルに時々水をかけて冷やす。

4時間の間に一回だけ貨車が通る場面を見た。10両たらずで貨物は空だった。その線路を歩く黒人の姿を見て、映画のシーンを思い出す。帰国後、ケニアの人は足が速いと聞いた。首都のナイロビでは、車の渋滞より人の渋滞の方が激しいそうだ。
トラック輸送がほとんどなのか、バスの前後は大型トラックがいっぱい。帰りにはそうした大型トラックの一台が、道端に頭を突っ込む事故を起こしていた。おかげで渋滞となる。

ケニアのサファリでは「象・ライオン・サイ・チーター・バッファロー」の5つを見られればラッキーと言われる。我々はサイを除いて4つを見られたから、ツアーリーダーの言によれば「参加者の皆さんの普段の行いが良かった」ということになる。シマウマはそのうち見飽きてくる位、あちこちで見ることが出来た。

宿泊したロッジは高台にあって、180度広がったサバンナを見下せる。何の障害物もないパノラマ写真を見るような気分で気持ちよい。夜は満天の星。長男に見せたい。
このロッジ備え付けの水やり場(注)の水を飲みにくる象やサルの家族を、10メートルくらいの近さで見ることができた。DVDに象が水を飲む「ピチャピチャ」という音が入っているはずだ。
(注)3メートルx10メートルくらいあるコンクリート製の箱の中に、人間が入り象に襲われないようにしてある。

夕食後、現地の自然保護団体の人の話を聞く機会があった。ライオンは「雄社会」で、雌ライオンはオスの気を引くために、生まれたての子供を殺すという。妊娠していれば堕胎する(どのように堕胎するかは、レンジャーの人も知らない)。
生まれた子供が新しいオスとの間に出来た子供か、前のオスの子供か分からないような場合には、新しいオスとの間に出来た子供として育てるという。(本当?)

象は1960年代には4万頭いたが、今は数千頭に減っているという。ここの象が赤茶けているのは、虫除けのために砂浴びする砂が赤いからで、赤い象ではない。また象は一日に40リットルもの水を飲み、鼻で一回に4リットルも飲めるという情報は新鮮だった。
誰かが「象は死ぬときに象の墓場で死ぬ、と聞いたが本当ですか」という質問に「私は見たことがない。象はだいたい50~60才で死ぬが、多くは歯が抜け落ちて食事が出来なくなり死ぬ。たまには、足を沼地にとられて抜けなくなり、そのまま死んでいることもある」という答えだった。

あるグループは、象を見たのをきっかけに、ミニバンのドライバーに日本の童謡「ぞうさん」を教えた。ローマ字で歌詞を教えて、その紙に7人がサインし「次回日本人がケニアに来たら、是非象さんの歌を歌ってあげて下さい」と頼んだそうだ。

ケニアの人は視力が良いので、我々は気がつかないのに、車を止めてライオンがいると教えてくれる。みんなが写真を撮り終わったら、その合図になぜか「ハレルーヤー」と叫べという。
運転手とのコミュニケーションはこの一言だけで、英語は通じない。ケニア上陸の前に数回スワヒリ語の講座があったが、「ジャンボ」(「こんにちわ」)しか使えなかった。

80才のTさんの話を聞いた。何事も経験だと思いケニアではキャンプに参加したという。ボーイスカウトをやっていたというだけあって、寒さとかキャンプの不便さには一言もふれず、明け方4時ごろに何かの動物の遠吠えを聞いたと。
若い人の参加者からは、動物の遠吠えを聞けなくて残念だったというから、若者は4時ごろ目が覚めていなかったのだろう。

キャンプの話からボーイスカウトの話になって、最近は残念ながらボーイスカウトに人気がないという。コンピューター・ゲームよりは、野外でチーム活動を通じて学ぶことが多いのに。
例えば、「漁師むすび」というようなロープの結び方を、きちっと知っている人は少ない。私も知らないのだが、「漁師むすび」というのは野外活動で欠かせない基礎技術だという。Tさんはシルクロードも走破したという有名人らしい。是非自主企画で講演をお願いしよう。

チームビルディングの研修で、いくつかの材料から船を作って川を渡るというのがあった。材料は、大きなドラム缶、長い角材数本、ロープなど。
このとき、ある参加者がみごとに「漁師むすび」を披露してくれた。彼の技術がなかったら、川の途中で結び目が解けて沈没していたかもしれない。彼はボーイスカウト出身だった。

8月12日:赤道を通過する、ジャッグリング・ショー

8月8日:船のプール

船のプールで初めて泳ぐ。5x4メートルくらいの小さなプールなので、泳ぐというよりは水に浮かぶという感じ。ちょっと冷たい海水だった。
ジャグジーは3人くらい入れる大きさで、こちらは若干温めてあった。常連になると、クルーに「もっと温度をあげて」と頼む人もいる。私の部屋にはバスタブがないので、風呂代わりで首までつかり、腰にバブルをあてて腰の痛みを和らげる。プールに入ったのでこの日はシャワーなしでも汗は流れた。
その後ときどき、満天の星を仰ぎながらジャグジーに入る。昼間の紫外線を避けることが出来るが、夜の海上は意外と風が強く、出るとすごく寒く感じる。

船のプールの水は航海中に海水をくみ上げるので、それぞれの地域の海水で泳いでいることになる。地域によって海水の色が微妙に違うそうだ。また、寄港地に停泊しているときは、海水をくみ上げられないからプールは空にして閉鎖してしまう。

ジャグジーで知り合ったKさんの説明によると「ドブロブニクの海水の色が透明度が高くきれいなのは、地中海の海底が石灰岩なのでヨードを含む海藻類が繁殖しにくく、その結果水の透明度が高い」のだという。
ラッコが好きな藻の多いサンフランシスコ沖の水は、地中海の水ほど透明ではないらしい。プランクトンが生息するかどうかで、透明度が影響を受けるという説明も聞いた。時間ができたら調べてみたいものだ。
 
8月12日:赤道を通過する、ジャッグリング・ショー
 コーチンとケニアの間に赤道を通過する。船内新聞に「船内ではいろいろな噂が流れる。赤道を通過するときに『白と赤のポールが見える』というのは、嘘」とあった。アンコールワットで顔なじみになったNさん(70才くらい)が「ある人に新聞に噂とある『白と赤のポール』の話をしたら、本気にしちゃって困ったの。どうしようかしら」と相談を持ちかけられた。「いいんじゃないの」と。

 8月11日の船内新聞に「12日00時から13日23時59分の間に赤道を通過するので、実際に通過する時刻を推理してあてて下さい」というトトカルチョがあった。一口500円で前回は400枚以上が売れて、当たった20才代の若者が、10数万円を手に入れたという。半分はレバノン救援基金にするという企画。

参加者は、6階に貼り出されている海図に物差しをあてて、にわか航海士となる。中には「うちの主人はエンジニアで船に詳しいから、ファックスで聞いてみようかしら」という熟年の女性もいる。
船のスピードは風力、潮の流れ、波の高さなどで左右されるので予測が難しい。一口参加。帰国したら息子たちと計算方法を検討しよう。正解は12日の01時51分だった。正解者一名で5万円の賞金。私の予測は01時27分で、向かい風に遭って速度が遅くなったようだ。

(ジャッグリング・ショー)
水先案内人(注)金昌幸(キムチャンヘンKIM CHANG HAENG、在日3世)のジャッグリングの公演は大好評だった。キムさんは現在20才で、国際パフォーマンスのコンテストで2000年、2004年と連続金メダルを取り、2008年には3連続金メダルを狙っている。
その為に今年11月から公演活動などは一切止めて、練習のみの毎日にするという。意気込みが半端ではない。
(注)これはピースボートだけのプログラムではないかも知れないが、それぞれの分野の専門家が航路のある区間だけ乗船して、訪問する国々の生活・歴史・文化を紹介したり、国際政治について話したり、マジシャンのように船内生活を盛り上げてくれたり、多彩なプログラムがある。

5夜連続公演の前の日に、1時間にわたりキムさんの20年間の生い立ちについての対談があった。朝鮮人のキムさんが、小学校時代に日本人にいじめられた話や、お母さんの厳しいしつけ、独特で且つ徹底したジャッグリングの練習方法などの話に一同感動した。
翌日の昼食ではこの話でもちきりだった。船内の若者たちと大違いだ。中には部屋に帰って泣いたという女性もいた。

印象に残った話の一つは、4才の時おばあちゃんに「世界で一番になれ」と言われ、好きなことを探し始めた、という話。いまどき自分のやりたいことが分からずに、大学に進学する若者がいる日本。この船に乗って自分探しをしている若者が、このショーを見ているかもしれない。
勉強以外でも世界に認められることがある、ということを実証しようと決心。あるとき、偶然アンソニー・ガットというジャッグリングの名人のビデオを見て以降、この道一筋。他の人と違うことをやろうと決心。徹底した筋肉トレーニングが、キムさん独特のパフォーマンスの基礎にあるようだ。

彼の偉いところは、世界の他のトップ・パフォーマーのDVDを紹介して「こんなすごい人もいるのですよね。感動しました」と、自分はまだまだ未熟だと言っていたこと。
翌朝「国際パフォーマンスのコンテストで連続金メダルを取ったのに、テングにならず、驕りを全然感じさせませんよね」「まだ20才ですよね」と感想を話し合った。


2007年1月 7日 (日)

インドの言語の多様性

(インドの言語の多様性)

インド人のガイドの英語はよく分からない。説明の中で一つだけ印象に残ったのは「インドは28の州からなっており、一つの国というよりは、ヨーロッパ連合(EU)に近い」という部分だった。
国際政治の舞台では一つの国でも、この国土の広さと異文化の人々を見ると、28ヶ国の連合国と説明されて納得した。

インドには、色々な文化を持った人々の集団があると共に、多様な言語がある。少なくとも30の異なる言語があり、200前後の方言が知られているという。
連邦政府の公的共通語としては、ヒンディー語と英語の二つであるが、それぞれの州は22の指定言語の中から、行政上の公用言語をそれぞれの州で採択できることになっているという。ルピーのお札には15の言語が記されている。

新日鉄に入社してまもなく、人事部でインド人を企業研修生として受け入れる世話係をしていた。6ヶ月の日本語研修を受けてから研修に入るのだが、そのインド人の日本語は日常生活に不自由しないくらいのレベルだった。
「なぜそんなに早く日本語を身につけられるのか」と聞いたところ「インドには方言が無数にある。隣の町になると言葉が違うので、小さいときから耳が音の違いに敏感になり、訓練されているのだろう」という説明を受け納得したものだ。

最近日本では英語を早い時期、しかも日本語もろくにわからない幼児に教えているが、早すぎるのも考えものだ。耳の感受性が高い子供のうちに外国語を学ぶ方が早く上達するといっても、日本語を覚えるのが先だと思う。
肝心の日本語を先にしっかり勉強してほしいものだ。そうしないと海外子女を増やしているようなものだ、教育投資の観点からも疑問が残る。

(コーチンの貧困状態)

 コーチンでは、ホテルの桟橋から50人乗りくらいのボートに乗り、水郷地帯(バックウォーター)をぬけて小さな島を訪問した。1時間くらいでベニスの船着場のような岸壁に着いた。途中、岸辺では水浴びをしているおじいさんや、若い女の人が洗濯をしている。
島を案内された。電気はかろうじて通っている。水は毎日、天候が悪いときは隔日に船で運ばれ、朝5:30から6:30の間だけ配給されるという。早起きしないと生きていけない。
この島の唯一の店には、昔懐かしい広口のビン数個にお菓子らしきものが入っていた。しなびたジャガイモが30個くらい、直径10センチくらいの、これもしなびたキャベツが1個半転がっていた。他にめぼしいものなし。島全体が非常に貧しい、自給自足の生活と思われる。

特別に家の中を見せてもらえた。突然のことに奥さんはとまどいの表情。このときTさんが、船で両替したばかりの100ルピー(XX円くらい)紙幣を、この奥さんの手にそっと握らせたそうだ。このことが後で議論をよぶことになる。
部屋は薄暗く、ざっと見た限りでは電球は見当たらなかった。ベッドは、日本では粗大ごみに出ているようなボロボロのもの。家具はなく、食卓もテーブルもない。
わずかに壁を棚のようにくりぬいて、飾りらしきものが置かれていた。いたたまれなくて、3分と見ていられなかった。誰かが「ここでの暮らしを経験したかったら、ウルルン滞在紀で出演させてもらえば」と言っていた。

このツアーに対して、参加者の中に二つの違った反応があった。一つは「日本は恵まれすぎていて毎日がお祭り・飽食。もっと物を大事にする気持ちが必要」もう一つは「大金を払ったのに、こんな貧困状態を見させられて」というもの。
人それぞれ価値観が違うから、と言えばそれまでだが。考えるほど奥の深い、一筋縄で解決できない、悩ましい問題であると考えさせられてしまった。
マザー・テレサが、1981年日本を訪問した際に残した「世界でこれだけ困っている人々がいるのに、そのことに無関心な日本は貧しい国です」という言葉は重い。

(インドの貧富の格差は半端ではない)

日本では、少し前まで「一億総中流社会」と言われていたが、最近になって格差の問題が脚光を浴びている。
インドでは、5%の人が裕福でそれ以外の人は貧しい、といわれるように、貧富の差がはげしい。今日本で議論されている格差とは比較にならない。

インドを旅行した多くの人は、子供からお金をせびられた記憶がある。あるいは、絵葉書などをしつこく売りにくる。場所によっては、道端でおわんを置いてひたすら頭を地面にこすりつけて物乞いする者。出来るだけ早くその場を立ち去りたい気持ちになる。
一方、マハラジャと言われる人たちは、日本の金持ちといわれる人の何倍も金持ちだろう。例えば、新日鉄に勤めていたころ、鉄鉱石会社の社長の自宅に招待された。頭つきの大きなトラの毛皮が、玄関にドーンと敷かれていたのが印象に残っている。シャンデリアはイギリス風のもの。大富豪である。

次回は1月中旬に掲載します。

インド(コーチン)

8月4日:かっぽれ

 江戸の伝統芸「かっぽれ」を、ピースボートの専門スタッフが教えてくれる企画があった。20人くらい集まり基本の基本から習う。テープレコーダーの歌に合わせて踊るのだが、みんな全くの素人。3分足らずの踊りを7~8回に分けて教えてくれた。踊るための道具は手ぬぐい一本だけ。1時間で汗をかく。
 この先生の教え方がすこぶる上手だ。わずかの動作を5~6回繰り返し、皆ができるようになるのを見極めて、次の動作に移る。決して急がない。
DVDに先生のお手本を録画して、自室のPCでDVDを見ながら動きを練習する。再生のスピードを遅くしても、なかなか追いていけない。体が言うことをきかない。
 
 インド(コーチン)の上陸説明会があった。
 「日中の気温は30度を超えます。帽子やサングラスなどの日除け、日焼け対策を行って下さい。また、水分の補給も忘れずに」アンコールワットの経験を生かして帽子の他、バンダナを首にまいて万全を期す。写真うつりなど気にしていられない。紫外線による体力消耗を避けなければ。

8月5日:星空観察会

 9階の屋上デッキで、南半球の星空と水がめ座流星群を見る、星空観察会があった。現在居る場所・時刻をインプットすると、その場所で見られる星座が画面に現われる、という優れもののパソコン・ソフトがある。
自主企画でSさんが、そのパソコン・ソフトを使って説明してくれた。何回も説明を受け、やっと南十字星が分かるようになった。もっと星座を勉強してくればより楽しめたのに残念。長男は星座が好きなので、絵葉書に「ピースボートに乗れば南十字星を見られるよ」と書く。

インド

8月6日~7日:コーチン

インドの寄港地コーチン市(ケーララ州に属する)は、インド南端西海岸に位置している。歴史的には、ユダヤ人が紀元前1世紀頃からインドにやってきて、香辛料貿易を一手に引き受けた。ポルトガル人が来るまでの長い間、この地域にはユダヤ人王国が築かれていたとのこと。
ユダヤ人がインドにそれほど昔から来ていたとは知らなかった。ユダヤ教のシナゴーグ(教会)も外観だけ見学した。ユダヤ人はシナゴーグを中心に、ユダヤの文化を受け継ぐ努力をしている、と聞いている。

ユダヤ人や中国人・韓国人の海外における結束の固さは、目を見張るものがある。日本人は日本人同士で仲間を作っているように見えるが、ゴルフ・買い物のような表面的なつながりのように思える。
例えば、30年前ニューヨークに学生として、ユダヤ人の家庭に土曜・日曜泊めてもらったことがある。土曜になると家族全員がシナゴーグに行く。教壇では、小学生がちくわの化け物のような巻物「トーラ」という、ヘブライ文字のユダヤ教経典を、指をなぞりながら読んでいた。
こうした努力により、ユダヤ教の伝統を次の世代に伝えているのだと思った。日本では、日本の伝統を守らなくてはと言うものの、ユダヤ人のような行動はあまり見られない。

このシナゴーグの近くには、聖フランシス教会がある。1524年この地で死んだ、ヴァスコ・ダ・ガマの墓石が床に埋められている。残念ながら日曜だったので中には入れなかった。
(コーチンの街)

ホテルを一歩出ると、ガイドの「コーチンは、インドの中で最もきれいな町と言われています」という説明に首をかしげたくなるような状態。「きれいな」という基準が違うのだ、と気づくのに時間はかからなかった。
他の人の旅行記に「コーチンは教育水準が高く、識字率はインド随一だそうです。デリーやマドラスで多く見られた物乞いの姿は、町なかでは見られませんでした」という一節があった。確かに物乞いはいないが、散乱しているゴミや、浜辺での生魚の店から発せられる臭いなど、衛生状態は良いとは思えない。

しかし、公園には滑り台やブランコのような子供の遊び道具があり、全体の生活水準は高いような印象を受けた。ライオンズ・クラブのメンバーの社長宅にホームステイした人の話を聞いたら、金持ちは非常に豊かな暮らしをしていると言っていた。貧富の差がはげしいということか。
下男と思われる若い人に、散歩させてもらっている犬がいた。早速シャッターをきる。犬・ネコは、今回の旅行で大切な被写体のひとつ。私がピースボートに乗れるようにと「自殺」した猫たちのためにも、世界の犬・ネコの写真をとって墓前に報告しなければ。

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